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11、元彼アルファ

 掴んだ腕をそのまま男の背面へとねじ上げると、男は「いででででで!!」と悲鳴を上げてその場に膝をつく。  男は見た目通りの痩身で身長170の僕とさほど背丈も変わらない上、痛みに驚き悲鳴を上げながらうずくまる様子はまったくの素人。僕はやや手の力を緩め、男の襟を後ろから掴んで顔を上げさせた。  男がテラス席に一歩足を踏み入れたところで繰り広げられた騒動だ。由季央が弾かれたように背後を振り返り、男を見て目を見張っている。 「東山(とうやま)先輩……!?」 「え? 先輩? 知り合いか?」 「そーだよ! 何してんだよ、ちょ……とりあえず手ぇ離せって!」  本当に由季央の知り合いらしい。僕はぱっと手を離し、膝をついたままの男に手を差し伸べた……が、当然のごとく睨まれただけ。一歩引いて腰を九十度に折り、「どうもすみませんでした」と謝罪をすると、東山と呼ばれた男はよろよろと立ち上がり、サッサっとジャケットの埃を払う。 「……外から由季央が見えたから、驚かそうと思ってこっそり近づいたんだけど……何だよこいつ、誰?」  立ち上がった由季央のこともじろりと睨み、東山は僕の全身をジロジロと観察した。  今日はスーツではなく、由季央から「これでも着とけ」と命ぜられたシンプルなハイネックセーターと細身のジーパンという格好だ。一般人にしか見えないだろう。 「えーと……こいつは真山春記。俺が今、付き合ってるやつ」 「えっ……つ、付き合ってる……?」 「春記。こちらは東山光流(とうやまみつる)さん。俺の高校時代の先輩で、この人もヴァイオリニストだ」 「そ、そうだったのか……!? すみません、手荒な真似を……!」 「……恋人、できたんだ」  僕の存在など忘れてしまったかのように由季央を見上げる東山の眼差しは、どうしてかとても寂しげだった。  ゆるいパーマっけのある淡い栗色の髪の毛や、柔和に整った顔立ちには優雅な気品が漂い、外見や雰囲気から良家の子息であることが窺える。  おそらくはアルファだろう。初対面の相手を見るときは無意識のうちに首筋に目がいくが、この男のシャツの首元は涼しげだ。 「浮いた噂が聞こえてこないから、てっきりまだ僕のことが忘れられないんだと思ってたのになぁ」 「いや、忙しくてそれどころじゃなかっただけ」 「そ……そっか。そういうことなら、僕も心置きなく結婚できるよ」  ——……ん? なんだこの会話。アルファ同士とは思えないような生々しさだな……?  その場に立ち尽くしたまま二人のやりとりを見守っていた僕を、東山がじっと見つめてくる。そして、腕組みをして小首をかしげつつ、じりじりとこちらに歩み寄ってきた。 「……で、君が由季央のねぇ……」 「ええまぁ……はい。親しくお付き合いさせていただいてます」 「ふーん……」  相手は近づいてくるが僕は一歩も後退しないので、いつしか真上からジロジロと見下ろされるような格好になってしまう。すると由季央がぐいと僕の腕を引き、東山との距離が急に開いた……かと思うと、視界が由季央の背中で覆われる。どうやら庇われているらしい。  ボディガードがクライエントに庇われるなどあってはならないことだが、目の前に突然聳えた背中は頼もしくも見え、不本意ながらも僕は若干乙女チックな気分になりかけた……というのに、由季央がこんなことを言う。 「こいつ手癖悪いから、あんま近づかないほうがいいよ」 「え、手癖?」  痛みを思い出したかのように、由季央の肩越しに僕を睨んで、東山は自らの腕をさすっている。  ひょっとしたらこいつが脅迫メールや爆発物を送った犯人かもと思ったから手を出しただけなのに、なんだその言い草は……と、僕は憮然としたまま由季央の背後で腕組みをする。  すると東山も腕組みをして首を伸ばし、由季央ごしに僕の顔を覗き見てくる。 「ふーん……由季央って、こういうバイオレンスな子がタイプだったのか」 「そっ……それは、まぁ、あはは」  顔を見なくても、由季央が引き攣った笑みを浮かべているのがわかる。僕はずいと一歩前に出て、「由季は激しいのが好きだもんな」と適当なことを言ってやった。 「はっ!? 何言ってくれてんだよ先輩の前で!!」 「ふん、君の実家のベッドでも、僕に掌底を食らって喜んでたじゃないか」 「よ、喜んでねぇし! あれはお前が……」 「なるほど……しばらく離れてる間に、妙な性癖に目覚めたんだね……」  言い争う僕らを生ぬるい目つきで眺めながら、東山が呆れたようにそう言った。一瞬「ちがっ……」と訂正しかけた由季央だが、それも面倒だと思ったのだろう。ため息をつきつき「まぁ……そういうこともあるっつーか」とお茶を濁した。 「相性の良い相手が現れて離れ難いのはなんとなくわかるけど……この彼のこと、貴親さんはお認めになったのかい? もう紹介したの?」 「これから。まだ貴親には会ってないし、龍之介さんも演奏旅行だ」 「相変わらずお忙しそうだね」 「……それはさておき、先輩はなんでこんなとこにいんの? すごい偶然じゃん」  三人そろって着席し、僕と由季央は食事の続きにとりかかる。東山もアイスコーヒーをオーダーし、すらりと長い脚を組んだ。 「車を買い替えたから、気分転換にドライブしてたんだ。結婚しちゃうと、一人でフラフラする時間もそう持てないかもしれないし」 「なるほど」 「それにこの店を教えたのは僕だよ? 忘れちゃった?」 「あー……そういえばそうかも。親の墓所に近いんで、なんとなくよく使ってたけど」 「……そう、忘れちゃってたんだね……」  テーブルの上に置かれた由季央の手にそっと手を重ねようとしていたらしい東山が、物悲しげな表情ですごすごと手を引っ込める。  ……なるほど、だんだん読めてきたぞ。この二人、アルファ同士だというのに、過去に色っぽい関係性になったことがあるっぽい。  ——てことは、いわゆる元カレってやつか……。ん……? どっちもアルファってことは……どっちがどっちだ……?  性交渉において、アルファとオメガは役割ははっきりしている。だが、アルファ同士となると……?   ——い、いや……でも、大昔っていってたし、そういう関係にまでならなかったかもしれないが……。  東山よりも由季央のほうが明らかに体格がいい。つまり由季央が先輩アルファを抱いていた……? いや、だが、体格がいいほうが欲望を受け止める側になると決まっているわけでは……——  そこまで考えてハッとする。  僕はいつのまに、こんな下品なことを考えるようになってしまったのか……と。  筋トレと訓練に忙しく、これまで色恋沙汰には一切かかわりがなかった。好いた惚れたという話はどこへいっても頻繁に耳にするものだが、僕はそういうゴシップネタに興味も関心もなかったというのに……  ——ま、まぁ。どっちがどっちでもいいけど……由季のやつ、淡白そうな顔をしてやることはしっかりやってるんだな……。  頬杖をつき、ずずずーと音を立てて食後のアイスコーヒーを啜りながら、僕は一応「ご結婚されるんですね。おめでとうございます」と東山に言ってやった。 「ああ、ありがとう」 「なんだか浮かない顔ですね。幸せの絶頂じゃないんですか?」 「そんなことはないよ。相手は幼馴染で、家同士が決めた許嫁同士なんだけど……相手もいい子だし」 「もう番ってるんですか?」 「いや、まだだよ。うちは形式を重んじる家でね、まずは式をあげて場を整えてから番うようにと教育されてきたんだ」 「へぇ……なるほど」  そもそも式は「番った相手のお披露目」という意味合いが強いのだが、東山は先に挙式を済ませるという。今は結婚式や挙式といった形式にこだわる人間は減っているようだが、東山家には古典的なやり方が残っているらしい。 「明日は頼むよ。わざわざ帰ってきてくれてありがとね」 「いいよ、久々に懐かしい顔も見たいしね」 「……明日? 明日、何があるんだ?」  何やら僕の知らない話がとんとんと進んでいる様子を感じ取り、僕は由季央のシャツの裾引っ張って尋ねてみた。 「明日が先輩の結婚式なんだよ。で、俺はそこに招待されてて、お祝いに演奏するんだ」 「あー……いくつか予定が、っていうのは、それのことか」 「あれ? 言ってなかったっけ?」 「聞いてない! ……てか、演奏するの? 手首、平気か?」 「まぁ、長い曲をやるわけじゃないし、大丈夫だろ」  ぼそぼそとやりとりをしている僕らの話を聞き取ったらしく、東山が由季央の手首に目線を落とした。そして、眉間に皺を寄せている。 「右手の包帯……どうかしたの?」 「あー……ちょっと、軽い捻挫を」 「大丈夫なのかい?」 「大丈夫ですよ、もう痛みも引いてるし」 「そう。やれやれ、いったいどんだけ激しいエッチをしてるんだ……」  はぁ、とため息をつきつつ、東山はゆるゆると首を振る。……どうやら、激しいエッチの末に右手首を負傷してしまったのだと勘違いしているらしい。    由季央はまた「ちがっ……」と訂正したそうにしていたけれど、結局それも面倒になったのだろう。妙に清々しい笑顔を浮かべて「いや、まぁ、そんな感じですかね。あははは……」と笑った。 「僕とはノーマルなエッチしかしなかったしなぁ。全然見抜けなかったよ、由季央の好みを……」 「……はあ」 「言ってくれたらよかったのに。そしたら、ちょっとくらい縛られてあげたりとか、ひっぱたかれてあげるくらいは……」 「いやいや、あはは……」  ——なるほど……このふたり、肉体関係までしっかりあるのか。……アルファ同士なのに……。  なんとなく、睦み合う二人の姿を妄想してしまったせいで、気恥ずかしさとともにかすかな腹立ちが胸の奥でチリリと生まれる。  ——なんで僕がイライラしなくちゃいけないんだ、バカらしい。  だが、なぜだか気持ちが収まらない。というか、恋人役を頼むのなら、もっときちんと情報を寄越してもらわないと困る。恋人らしさも出せないし、警護のしようもない。  とっととこの話題を終わらせたそうにしている由季央の手首にそっと手を置き、僕は嫌がらせのようにあざとく上目遣いをしてみた。 「ごめんな、由季。僕が乱暴にしたせいで、こんな傷を負わせてしまって……」 「……はっ!? おまっ……何を」 「ちょ、ちょっと待って……君が乱暴にっ……て? 君、オメガでしょ? え? 抱かれながら乱暴にするって一体どういう……」  東山が混乱し始めたところで、由季央はさっさと立ち上がった。そしてジロリと僕をひと睨みしたあと、「会計済ましてくる」といってスタスタとレジの方へ……。  それでもなお興味津々なようすの東山だ。  僕はあえて営業スマイルを浮かべながら「あはは、気持ちよくて、わけがわからなくなってしまって、手が出ちゃうんですよね〜。手癖が悪いもんで〜」とヘラヘラしておいた。

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