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13、この状況は……!

「……悪かった」 「え? なにが」  荷物を床に置き、大きな窓から見える眺望に感嘆の声をあげている由季央の背中に向かって、僕は深々と頭を下げた。  ここは明日、東山の結婚式が執り行われるホテルの一室。もともと今夜から宿泊予定になっていたらしく、ここまでの移動はとてもスムーズだった。 「不仲とはいえ……君の親にお茶をぶっかけるなんて、どうかしてた」 「ああ、あははっ。全然いーって、むしろすげースカッとしたわ」  こっちを振り返り、由季央はいつになく清々しい笑顔を見せる。  移動中の車内、徐々に頭が冷えてゆくにつれ、自分がしでかしてしまった行動がいかにマズいかということに僕は気づいた。  ずずずーんと重たい空気をまとわりつかせながら頭を抱えている僕の隣で、由季央はテキパキとこのホテルへのチェックイン時間を早めたり、明日の結婚式のために僕の衣装を手配したりと忙しそうにしていた。  そして、あっという間に連れてこられたのがこのホテルだ。地上50階建の五つ星ホテルで、今僕らがいる部屋は45階。  そろそろ陽が傾き始めているため、眼下に広がる都会の街はオレンジ色に暮れなずみ始めている。僕も窓のほうへ歩み寄り、夕日の橙色と、ビルの影が生み出す黒色が重なる様子を眺めた。この高さから見ると、にょきにょきと地上から生えているビルがまるでおもちゃのようだ。 「ていうか、春記があんなに怒るとは思わなかったけどな」 「だって、腹が立つじゃないか。由季が子どもの頃にあんな仕打ちを受けているとは思わなかったし」 「あー、話してなかったっけ」 「聞いてない! けど……進んで話したいことでもないだろうな」 「まぁ、そうだな。誰にもに話したことないし」 「そうなのか?」 「だって情けないだろ。あんなのの言いなりになって、追い出されるのが怖くて、泣きながら猛練習したおかげで今があるなんて、思われたくねーじゃん」  由季央は唇に苦笑を浮かべて、自嘲気味にそう言った。  徐々に夜の姿へと変貌しつつある街を見下ろす彼の瞳に、いいようのない傷つきと苦しみが浮かんでいるように見える。僕は首を振り、腕と腕がかすかに触れる距離まで、由季央のそばに近づいた。 「情けなくなんてない。由季はまだ何も知らない子どもだったんだ。君の身の安全を脅かすようなことを言うあの男が100パーセント悪い。しかも、由季を金儲けの手段みたいに扱うなんて許せないよ」 「……いや、慣れてるから平気なのに」 「慣れなくていいんだ、こんなこと!」  話しているうちに、再びあの男と話していた時に感じていた怒りがふつふつと沸き上がってくる。僕は由季央の両腕をむんずと掴んでこちらを向かせた。 「僕が由季の親なら、誇らしくてしかたがないって絶対思う! 小さな頃から努力して、こんなに立派なアルファになって、ヴァイオリニストとしても成功しているのに、褒め言葉の一つも寄越さないなんてありえないだろ!!」 「……そ……そう……か?」 「そうだよ!! しかもこんなに美形でスタイルも完璧なんだぞ!! 僕が親なら、あっちこっちに自慢して回っても足りないくらいなのに……!!」 「ちょ、……ちょっと待って。まじで」  上腕を掴んでがくがく揺さぶりながら怒りに任せてそう喚き散らしていると、由季央が片手で顔を隠しつつ、僕から顔を背けてしまう。  揺さぶりすぎたせいで目眩でも起こしたかと思い、僕は「あ、ごめん」と手を離した。すると由季央は、どこか気まずげに眉間に皺を寄せ、口元を拳で隠しながら窓の外へと視線を泳がせる。 「? どうしたんだ?」 「……なんでもない」 「いやっ、なんでもないわけないだろ。ごめん、力任せに揺さぶったせいで気分でも……」 「違う、違うって」  どうしたんだろう、由季央の顔が真っ赤だ。目も潤んでいる。夕日のせいか……と思ったけれど、すでに窓の外は群青色が勝り始めている。 「……由季? 熱でもあるのか?」 「ち、ちげーって! そ……そんな、真っ正面からベタ褒めされたら、どうしていいかわかんなくなるだろ!」 「えっ」  そうだ、由季央は誉められ慣れていないんだった。ついつい勢いでベタ褒めしてしまったから、すっかり照れてしまったらしい。  ——可愛いところがあるじゃないか。もっとオラオラ系の俺様アルファかと思ってたのに……。  年下アルファの可愛らしさに軽くときめきを覚えながら様子を見守っていると、由季央ははぁ……とため息をつき、ようやく僕のほうを見た。そして、聞こえるか聞こえないかの低い声で、「……ありがと」と言う。 「ん? 何て? お礼はもっと大きな声で言ったほうがいいぞ」 「聞こえてんじゃねーかよ! もう言わねぇ。あー腹減った」  ぷいとそっぽを向き、すたすたと窓から離れてゆく由季央の背中に向かって、僕は小さく笑った。備え付けの電話でルームサービスを頼んでいる由季央の立ち姿はモデルのように格好がいいのに、なんだか何をしていても可愛く見えてくるので不思議だ。  すとんとベッドに腰掛けると、極上のスプリングが僕の尻を柔らかく受け止めてくれる。伊月邸のベッドもなかなかのものだったが、さすがは5つ星ホテルだ。任務以外でこんなハイソサエティな場所に出入りする機会はなかったから、ベッドに座るのも初めてだな……  と思いかけて、僕はハッとした。  何か浮かれているようだが、今もしっかり任務の最中じゃないか。由季央を守るという、重大な任務の最中だ。  ーー……どうかしてる、こんなに感情的になるなんて。  普段の僕は、もっと冷静にものごとを考えることができる。間違っても、カーッと頭に血が昇って、依頼人の義親にお茶をぶっかけるなんてことはしないはずだ。  由季央のフェロモンにあてられないようにと抑制剤を飲み続けているというのに、どうしてか思考より感情が先に立ち、身体が勝手に動いてしまう。  ーーくそ、今後の任務でも気をつけないとな……。こんなに密に接することはなくとも、アルファを護衛する機会は山ほどあるんだ。  今夜は思いっきり筋トレをして、もやもやしたものを汗とともに流し去りたい気分だ。筋トレグッズがなくとも身体を鍛えることはできる。さっそく床で腕立て伏せをしようと立ち上がった僕に、ルームサービスの注文を終えた由季央が声をかけてきた。 「春記の親は? どこでどーしてんの?」 「母は元気にバリバリ働いてるよ。看護師をやってる」 「へぇ、そうなのか。じゃあ、父親は?」 「父は警察官だった。通行人を庇って死んだよ」 「……えっ、そうなの?」 「ああ。父らしい最期だったと僕は思う」  父さんはベータにしては恵まれた体格をしていて、大きな身体に逞しい筋肉は頼もしく、温厚で優しい父親だった。制服に身を包んだ父親はいつだってかっこよくて、誇らしくて、大好きだった。  真面目で勝ち気な性格をした母に常に尻に敷かれていたけれど、それさえも幸せそうだった。「ぼくもけいさつかんになる!」と幼い夢を抱いていた僕の頭を撫でる父さんの眼差しはいつも愛おしげで、撫でてもらえると嬉しくて——久々に父の微笑みを思い出し、鼻の奥がつんと痛む。 「父が亡くなったのは、僕がオメガとわかる少し前のことだったな。ベータ家庭に生まれるオメガはすごく珍しい、玉の輿が狙えるぞって親戚たちは喜んでたけど、僕は全然嬉しくなかった。父さんを失望させてしまうかも……と思うと、な」 「失望? なんで?」 「現状、オメガは警官にはなれないからな」  オメガの社会進出は進んできているとはいえ、警察組織はいまだにオメガの入庁を許してはいない。職務のハードさを思えば無理もないことなのかもしれないけれど、僕はそれが悔しくて仕方がなかった。夢へ向かってまっすぐに歩いていた道が、突然ガラガラと崩落してしまったように感じたものだった。 「失望なんてしねーだろ。春記は、体張って市民をしっかり守ってるんだ」 「……え?」  だが、過去にきっぱり決別したはずの落胆に肩を落とす僕に、迷いのない口調で、由季央はきっぱりとそう言った。  思いがけない台詞に目を丸くしている僕の元に歩み寄り、由季央もまたベッドに腰を下ろす。 「……少なくとも、俺はさっき、守ってもらった」 「え? さっき?」 「貴親が何を言っても、俺はもう何も感じないと思ってた。けど……いざあいつを目の前にすると、ガキの頃のいろんなこと思い出して、実はけっこうビビってた」 「そうだったのか? 余裕たっぷりに見えたけど」 「ぜんぜん。吐き散らかしてやろうと思って考えておいた悪態も、身体が竦んで一つも言えなかった。望のことも、庇ってやれなかった」  投げ出した長い脚のつま先を見つめて喋っていた由季央が、ふと僕を見た。いつになく無防備な瞳で僕を見つめる由季央の表情を、なぜだかとても幼く感じる。 「堂々とあんなこと言えるなんてすげぇ。カッコいいって、思ったよ」 「へっ……」 「しかも飲み物ぶちまけるとかさ、……ははっ、修羅場すぎ」 「そ、それは申し訳なかったと……」 「いや、嬉しかった。守ってもらえたこと」  そう言って、由季央は笑った。  突然目の前に素直な笑顔が花開き、きゅぅぅぅんと胸が甘く締め付けられる。由季央からかけられた言葉のひとつひとつに心は揺さぶられ、飾らない柔らかな笑顔に、胸の奥深くまで撃ち抜かれる。  しかも由季央は、僕へ向けた視線を外そうとしない。並んでベッドに腰掛け、真摯な眼差しでひたと熱く見つめられ、心臓がこれまでに聞いたことのないほどの音量で拍動している。  ーーこ、この流れ、この雰囲気……! ま、まさか、キスされてしまうとか、そういうアレか……!?  頬が熱い、心臓の音がうるさい。なにか物言いたげな由季央の瞳はいつもより潤んでいて、澄み渡るように美しい。見つめられるだけで、頭の芯が痺れてうっとりしてしまうほどに……。  だがその時、ピンポーンと間の抜けた電子音が部屋の中に鳴り響く。  そして、僕が我に返るのとほぼ同時に、なんとも言えず気まずげな塚原の声が、背後から聞こえてきた。 「あ、あの……ルームサービスが到着したようですが……部屋に通してもよろしいですか……?」  執事というのは、気配を消すのがよほど上手いらしい。

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