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14、ネックガードの贈り物

「ええ、そうです。……はい、よろしくお願いします」  スマートフォンの画面をタップし、通話を終える。そして、物音を立てないようにバスルームからするりと出て、まだ薄暗い部屋の中へと戻った。  今僕が電話していた相手は、『exec』の先輩・甲田さんだ。今日は由季央がこの巨大なホテルで催される結婚パーティに出席するとあって、念の為少数の応援を依頼しておいたのだ。  不特定多数の人間が出入りするこのホテルに、例の嫌がらせ犯が出入りする可能性が大いに考えられるためだ。  由季央と近い関係にある招待客についての把握は終えているが、そこに挙がった友人たちの中に、爆発物を送りつけてくるような人物はいないと由季央は断言した。彼にとっては信頼に足る友人たちのようだが、人間の心の闇は計り知れない。思いもよらないところで恨みを買い、事件に巻き込まれてしまう人々を、僕はこれまでにたくさん見てきた。  ——なるべく、そういう目には遭わせたくないけど……  今泊まっていえるホテルの部屋は、由季央の計らいでツインになった。セミダブルのふかふかベッドが二台並んでいても余裕の広さのジュニアスイートには、うっすらと朝陽が差し込み始めている。    足音を消して由季央が眠っているベッドに近づき、そっとその傍に膝をつく。僕にすっかり気を許しているのか、由季央はピクリとも動かず静かに眠りに沈んでいるようだ。  ——長いまつ毛だな。  薄暗がりの中で眠る由季央の寝顔を見つめているうち、気づけば唇に笑みが浮かんでいた。高飛車で人の話を聞かないアルファだが、昨日不意打ちで見せられた素直な笑顔を思い出すと、落ち着いていたはずの胸が再びきゅんきゅんと騒ぎ出す。  しかも、寝顔がまた可愛らしい。きりりとした上り眉の眉間からは力が抜け、なんともいえず幼げな寝顔だ。ベッドに頬杖をつき、僕はしばしすうすうと規則正しく寝息を立てる由季央由の寝姿に見入っていた。  昨日から心が騒がしくて落ち着かないが、これがいわゆる『フェロモンにあてられる』という状態なのだろう。今もふわふわと香る由季央の匂いはやはり甘くて芳しく、気を抜けば花の蜜に誘われるミツバチのように近寄りたくなってしまう。  ——そんなふうに感じてるのは、僕だけなんだろうか……  由季央もオメガには耐性がないと言っていたけれど、出会った当初から比べても、彼の言動におかしな部分は見当たらない。噂では、フリーのアルファはオメガフェロモンに影響を受けやすく、番を持たないオメガに対して強い欲求を示すと聞いたことがある。だというのに、こいつときたら僕に対してまったくそんな素振りも見せないし……。 「……よほど色気がないんだろうな、僕は」  ぽつり、とそう呟いてみてギョッとする。  僕はいったい、ここへ何をしにきているのかと。  そもそも、アルファとオメガがふたりで一緒にいるからと言って、必然のように欲情し合うものでもないのだろう。そもそも、僕は第二性のやたらと動物的な部分に嫌悪感を抱いているはずなのに、すっかり由季央のアルファフェロモンにやられている。いつもの自分とは調子が違いすぎて戸惑うばかりだ。さっさと通常任務に戻りたい。  ——そもそも、僕とこいつじゃあまりにも境遇が違いすぎる。相手にされるわけもないんだからな……  僕はそっと手を伸ばし、由季央の頭を撫でる。柔らかな短髪が指に触れるたびくすぐったくて、あたたかくて、いつまででも撫でていたくなってしまう。 「ん……」  微かに身じろぎをするも、由季央は起きる気配もない。  ——かわいいなぁ……  幼い頃の厳しい境遇を跳ね除けて、今こうして成功を手にしている由季央の強さを誇らしく感じる。僕に誇られたところで由季央は嬉しくもなんともないだろうが、少なくとも僕は、これからの彼の人生に幸多かれと、心の底から願うようになっている。 「今日、もし何か起こったとしても、絶対に守ってやるからな」  僕は小さな声でそう囁き、立ち上がりかけたものの、物音を立てても深く眠っている由季央を前にして……つい、悪戯心が沸いてくる。  ベッドに手をつき、少し身を乗り出して、僕は由季央の頬に唇を触れた。  ごく短い淡いキスだが、つるんとした頬の柔らかさや、唇から伝わってくる由季央の体温の感覚はあまりにも刺激的すぎて……一瞬にして、ものすごい勢いで全身に血がめぐる。  ——うわ……うああああ、どうしよキスしちゃった……! すごいやわらかい、ほっぺたやわらかい……うわぁあああ……!!!  なんという暴挙をはたらいてしまったのか……!! 激しい後悔と羞恥に襲われた僕は風のように自分のベッドに潜り込み、真っ赤に火照った顔を両手で覆い、声なき悲鳴を上げながら身悶えるのだった。    + 「ふーん、馬子にも衣装だな」  そしてその数時間後。  東山の結婚式のために正装した僕を見て、由季央はいつもと変わらない調子でそう言った。学のあるほうではないが、その言葉が決して僕を褒め称えているものではないということくらいはわかる。僕はジロリと由季央を睨め付け、鼻を鳴らしつつ渡されたジャケットに袖を通した。 「ふん、高級なスーツのおかげでな」 「冗談冗談、似合ってるって。ほら、ラペルピンもつけてみ?」 「なんだこのキラキラは……。ったく、僕がここまで着飾る必要あるのかな」  姿見の前に立たされたまま、僕は手渡されたラペルピンとやらを装着した。スーツのジャケットを飾るものらしい。  しっとりとした触り心地はプラチナだろうか。キラキラときらめくダイヤモンドがあしらわれたもので、シンプルながらも高級感に溢れた逸品だ。 「一応俺の恋人役なんだぞ。貧相な格好してたら逆に浮くだろーが」 「へいへい、そうですね。どうせ僕は貧相だよ」  そう言いつつも、きちんと髪を整えてもらい、こうして濃いネイビーのスリーピースに身を包んでいると、僕の背後に立って腕組みをしているきらびやかなアルファとも釣り合いが取れているように見える。  由季央はしっとりと光沢のある黒いスーツに、僕のスーツと同じ色をしたネクタイを締めている。髪をすっきりとうしろに流しているから、かたちのいい額や耳がよく見えて、凛々しい顔立ちがひときわ目立つ。  そのキリッとした眉間に、小さくしわが寄るのを見て、僕は鏡面にうつる由季央を見上げて首を傾げた。 「ん? どうした」 「……あとさ、これ、つけてほしいんだけど」  何やら言いにそうに口ごもりながら由季央が内ポケットから取り出したのは、ビロード張りの細長い箱だった。一体何が入っているのだろうかと思い振り返ると、僕の前で、由季央がぱかりとその箱を開く。  中に恭しく収められていたのは、黒革に繊細な装飾の施されたネックガードだった。それはあまりにも美しい品で、僕はしばし呆然と贈り物を見つめた。 「え……、これ、僕に?」 「うん、まぁ……。こういうのなら似合うかなと思って、一応取り寄せといたっつーか……」 「へ……あ、ありがと」  箱を手に取って見上げると、由季央の白い頬がうっすらと桃色に染まり、なんだか可愛らしい表情になる。だがすぐに由季央はぶっきらぼうな口調になって、「ほ、ほら。つけろ」とつっけんどんに言う。 「そ、その……今つけてるやつはスーツに合わねーから。今すぐ外せ」 「あー……なるほど。うん……確かにな、こんな安っぽいのは合わないか」  ネックガードを贈られるという行為にやや舞い上がりかけたものの、由季央の言わんとすることをすぐに察した僕は、スンとした顔になりながら留め金に手を掛けた。  確かに、今身につけているものは機能性重視で自ら選んだ安物だ。贈られたそれとは比べ物にならないくらい素材は薄っぺらいし、デザイン性などあったものではない。  だが、曲がりなりにも僕はオメガだ。アルファの前でネックガードを外すことに抵抗はある……が、そんなことを気にしているのは僕だけだろう。  なんとなく悔しいので、僕はあえて潔くネックガードを外してやった。人前で無防備にうなじをさらすなど、第二性がわかってからは初めてのことだ。首筋はスースーするし、落ち着かないし、僕はそわそわしながら由季央を横顔で振り向いた。 「早く貸してく……れ……」  先を急かそうとして、僕は言葉を切った。由季央の妙に熱っぽい視線をうなじに感じたからだ。  シャツのボタンは二、三個空いたままで、首筋は露わなまま。いやに潤んだ瞳で僕の首筋を見つめていたが、そのまま視線を持ち上げた由季央と間近で目が合う。    どうせすぐにまた色気のない台詞が飛んでくるのだろうと思っていたけれど、由季央はじっと僕を見つめて黙っている。 「……由季?」 「えっ……?」 「どうしたんだ。早くそれ、貸してくれないか」 「あ、おう……悪ぃ」  努めてなんでもないような顔を装っていたが、ばくばくばくと僕の心臓は痛いほどに暴れている。しかも、てっきり自分でつけるものと思っていたのに、由季央はそれを手にとって、僕の首に巻き付けようとしているのだ。  このまま任せておいていいのか、それとも、自分の手でネックガードを装着すべきなのかと迷っているうちに、由季央は「前向けよ」と僕に言う。 「鏡、見てろ」 「うん……。……っ」  ひんやりとした柔らかな革の感触が、首に触れる。その妙に艶かしい感触が由季央からもたらされたものだからなのか、単にそのあたりの皮膚が薄いだけなのか……。由季央の指先がうなじをかすっただけで、これまでに感じたことのない感覚がぞくぞくっ……と背筋を駆け上ってきた。 「っ……」 「ん……冷たい?」 「ちょ、ちょっと、な……」  耳の後ろからかかる低音の声にさえ、妙な興奮を植え付けられる。だが、ここで変な反応を見せるわけにもいかない気がして、僕はぐっと奥歯を噛み締めた。  だが、喉仏の下あたりにある金具を繋ぎ合わせてもらううち、由季央の手が僕の首をすっぽりと覆うような形になってしまった。直接触れられてはいないものの、大きな手のひらから伝わってくる体温はあまりにも生々しく、僕はかたく唇を引き結び、震えそうになる身体を必死で抑える。  だが、どういうわけか、由季央の手が僕の首筋にそっと触れた。ぬくもりだけでもぞくぞくと甘い痺れをもたらしていたものが、直接肌に触れてきたのだ。  触れられた箇所から全身を駆け巡る甘やかな痺れにふらついて、僕は姿見に手をついた。 「ちょ……っ、なんで、触っ……」  つう……と後頭部の生え際からうなじへと滑り降りてゆく指の感触だけで、膝から力が抜けそうになる。震えるほどの快感に戸惑いながら鏡に映った由季央の行動を諌めようとしたけれど、それはうまくいかなかった。  指とは違う感触。もっと柔らかなものが、うなじに優しく触れている。  姿見に両手をついて僕を腕の中に閉じ込めながら、由季央は僕の首筋にキスを落としてきた。 「あっ……ァ……!」  堪えようもない高い声が唇から溢れる。自分でも聞いたことのないほどに、淫らな響きを帯びた声だった。  自力で立つことさえ難しく、僕もまた鏡に手をついて身体を支える。それでもなお、由季央は僕の首筋や耳を唇でたどり、時折色香漂う吐息を漏らす。  ネックガードはすでに装着されているけれど、まるで僕を噛んでしまいたいといわんばかりの妖艶な仕草だ。  ちゅ、ちゅっ……と唇が触れては離れる音を耳の後ろすぐで聴きながら、僕はひたすらに唇を噛んで声を殺した。 「んっ……んぅっ……ゆき、っ……」 「……」 「こ……こらっ……!! なにやってんだ、さっきからぁっ……」  由季央の行動を諌めようとしているのに、甘えを含んだような声しか出てくれない。ともすれば、由季央にもっと触れていてもらいたいとさえ願い始めている始末だ。  ただ気持ちが良くて、心地が良くて、触れてもらえた悦びに胸がつかえて、欲望のままに押し流されてしまいたいと思い始めている。だが……。  ——だめだ、だめだ……!! 確か、うなじからはもっとも強くフェロモンが香るんだ。僕が考えなしにネックガードを目の前で外したから、こいつもフェロモンにあてられているだけ……!  彼の意志がわからないのに、このまま妙な関係になだれこむわけにはいかない。由季央は前途あるヴァイオリニストで、名門家のアルファだ。僕など相手にされるわけもないし、由季央にとっても、僕と面倒な関係になることは望ましくないだろう。  鏡に押しつけられながら首筋への愛撫を受け入れていたけれど、僕は渾身の力で、由季央の腕から逃れようとした。 「やっ……や、や、やめろっていってんだろうが——っ!!」 「うぐぅ……!!」  ただ振り解こうとしただけだったけど、いつもの癖で肘が出てしまった。背後にいる由季央の鳩尾にきれいに肘鉄が決まり、由季央は腹を押さえてその場にずるずるとうずくまってしまう。僕は青くなった。 「ごっ……ごご、ご、ごめん!! 僕はなんてことを……!!」 「っ……げほっ、げほっ……おえっ……」 「あああ、ごめん、ほんとにごめん……! っていうか、オメガに背後から手を出すなんて、だ、だ、ダメなんだからなっ!!」 「……げほっ……わ……悪かった……。け、けど……肘鉄食らわすか? ふつう……ごほっ……」 「だ、だって僕は、こういうことに慣れてないんだ!! なんの遊びか知らないけど、妙なちょっかいはやめてくれ!」 「……っ」  さっきとは違う意味で潤んだ瞳が、じろりと僕を見上げてくる。  肘鉄の怒りか、それとも何かもっと別の文句があるからなのか。由季央の瞳の奥に、なぜだか傷つきのようなものを見て取ってしまったような気がして、僕の胸の奥もつきんと痛む。  由季央は無言のまま立ち上がり、腹を摩りながらため息をついた。そして、乾いた口調でこう言った。 「……悪かったって。ていうか、これくらいで動揺しすぎだろ」 「おっ……大きなお世話なんだよ。モテモテの君とは経験値が違うんだ。そういう遊びは相手を選んでやれ」  言いたくもないのに、嫌味ったらしい台詞が飛び出してしまう。由季央は僕の目を見ないままくるりと背を向けて、「ああ、そーするわ」と低くつぶやいた。

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