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15、見合いの相手!?

 扉を隔てた向こう側で、由季央は昔馴染みの仲間たちとリハーサルに臨んでいる。  友人たちへの紹介もそこそこに、由季央は僕に「外で待ってて」とだけ言い残して、忙しげに練習に入った。僕が負わせた怪我のせいでしばらく楽器に触れていなかったため、今からしっかり調整せねばならないらしい。  由季央とともに部屋に入っているのは女性アルファがひとりと、男性アルファが三人。四人で弦楽四重奏というものをやるらしい。  若干見学したい気持ちもあったけれど、部外者はいないほうが集中できるものなのだろうと思い、僕は素直に廊下に出た。  それに、少しだけ由季央と離れていたいという気持ちもある。朝方の妙な雰囲気からこっち、どういう顔をして由季央のそばに控えていればいいのかわからなくなってしまったからだ。  塚原に「何かあったらすぐに連絡してほしい」と言い置いて、僕は気持ちを落ち着けるべく、大きな窓のあるカフェスペースのほうへと歩を進めた。  宿泊者は何を飲んでも無料という気前の良いカフェだと聞き、僕はバーカウンターでペリエをありがたく頂戴した。濃いグリーンの細い瓶を手に窓辺のソファ席へゆき、深々と腰を下ろす。  そして、「はぁ〜〜〜……」とため息をついて項垂れた。 「わからない……僕はいったいどうしてしまったというんだ」  それに、由季央のあの行動はなんだ。これまでずっと紳士的な態度……というよりも、僕に対してほとんど無関心そうな態度だったくせに、あんなに急に距離を詰められてしまっては困惑するしかないではないか。  無防備にネックガードを外すという軽率な行動のせいで、誘惑していると捉えられたのかもしれないが……。 「……ふしだらなやつだと思われたのかな。だから、ちょっとくらいスケベなことをしてもいいだろうって思ったのかな……」  そのわりには、とても切実そうな目をしていた……ような気がする。  ちょっと苦しそうで、ひりひりするほど熱い眼差しだった。  それに僕も、由季央に触れられることを不快だとは感じなかった。むしろ嬉しくて、すごく気持ちが良くて、変な気分になりかけて……。  ——わからん……何がどうしてこうなった。……落ち着け、落ち着け真山春記。これは仕事なんだぞ。  スーーーーハーーーーと深呼吸をして、僕はペリエを一気飲みした。シュワッとした爽快感が喉を駆け抜けてゆくたび、もんもんとしていた身体と頭がクリアになってゆくような気がする。 「そうだよ、仕事だ。いつも通り、依頼人を守ればいいんだ。こんなところで油を売ってる場合じゃないぞ」  弦楽四重奏仲間の中に脅迫犯がいないとも限らないのに、こんなところでまったりしていていいはずがない。そろそろ甲田さんも到着するはずだ。  僕はジャケットの襟を正し、シャキッと素早く立ち上がった。どこまでも広がる都会の風景をざっと見渡したあと、由季央のもとへ戻ろうと踵を返す。  だがその時、僕はカフェのそばにいる他人の中に、見知った顔があることに気づいた。 「ん……?」  ふわふわの癖っ毛はまろやかな栗毛。抜けるような色白の肌をした青年だ。いかにもザ・ボディガードといった風態の黒スーツ男をふたりを引き連れ、僕のいるカフェにふらりと立ち寄ろうとしているといったようすで——  やや垂れ目がちな大きな目が、僕の姿を認めた。そして、長いまつ毛をふさふささせながらやや小首を傾げ、記憶の糸を手繰り寄せるような顔をする。  その表情の作り方を見て、僕ははたと思い出した。 「(すなお)くん、か? 薬師院家の……!」 「あっ……やっぱり、ボディガードの人! 格好が全然違うからわかんなかったよ!」  その青年は薬師院(やくしいん)(すなお)。以前、警護を担当したことのある良家のオメガだ。  薬師院家はその名の通り、製薬に特化した大企業だ。研究施設から工場まで自社で抱えて管理し、世のため人のためになる医薬品を多く生み出してきた歴史をもつ家柄である。  二年前、彼の姉の婚約パーティの警護を依頼された。当時、直は十六歳で僕は二十三歳。あの頃の直は第二性がオメガとわかったばかりで、精神的にも肉体的にもやや不安定なところがあり、きめ細やかなケアとともに身辺を警護する必要があった。その役目を、僕が任されたのだ。  一番年齢が近く、しかも僕はオメガだ。背格好においても相手に圧迫感を与える要素もなく、これ以上うってつけの人材はいないとの判断だった。  大勢の人間が出入りする屋敷の広間で、僕は常に直のそばについていた。僕の職業に興味津々だった直といろんな話をしたし、結構懐かれたような記憶もある。  十六歳の頃からほっそりと儚げだった直も、今は十八歳になっているはず。今もあの頃と変わらず可憐な愛らしさに溢れている。こういう子をオメガの中のオメガというのだろうな……と僕は思った。 「直くん、久しぶりだな。こんなところで何をしてるんだ?」 「知り合いの結婚式に呼ばれてるんです。真山さんは? 仕事?」 「えーー……と、うん、まぁ、そんな感じかな」  過去の知り合いの前で、「伊月由季央の恋人」の顔をしていればいいのか、ボディガードとしての顔をしていればいいのかわからなくて、僕は明後日の方向へ目を泳がせながら言い淀んだ。  ——……ん? ……ちょっと待て。今この子は結婚式に呼ばれていると言ったか。 「結婚式って……ひょっとして、東山家の式のこと?」 「えっ? ええ、そうですよ。僕の友人はオメガのほうですけど」 「あ、ああ……そういうことか。その友人さんとは古い付き合いなのか?」 「まぁ、親しくはないですけど家同士の付き合いがあって、子どもの頃から顔馴染みです。東山さんのこともよく知ってますし」 「へぇ……」 「あ、あと……」  二年前よりもずっと、はきはきと明瞭な受け答えができるようになっている直の成長が微笑ましい。だが直はちょっと言いにくそうに言葉を切り、可愛らしい顔にかすかな渋面を浮かべた。それでもやはりとても可愛い。オメガとはきっとこうあるべきなのだろう……。 「実は、この席でお見合い相手に会わなきゃいけないらしくて……」 「え。……お、お見合い?」 「そうなんですよ。去年決まった話なんですけど、お相手の方が忙しくて、なかなか帰国できなくて。話が全然進まなかったんです」 「……ほう」 「でも、東山さんの式には出席するっていうんで、そこでちゃんと話をしてこいって、両親が……」  直の見合い相手の多忙なスケジュール、そして帰国というワードに、僕はぴくりと反応した。どこかで聞いたような言葉ばかりだ。 「そ、その……お相手の職業は何? そっ……その人とも付き合いが長い……のかな?」 「彼の職業はヴァイオリニストですよ。付き合いは……まぁ、子どもの頃から、パーティなんかで顔を合わせる機会は何回かありましたかね」 「ヴァイオリニスト…………」  ——ってことは……由季央の見合い相手って……!!  僕は妙な目眩を覚えてふらつきかけた。なんということだろう。この子が、由季央の見合い相手だということか……!?  どく、どく、どくとおかしな速度で心臓が跳ね上がり、冷たい汗がこめかみを伝う。 「……ヴァイオリニストというと、その……伊月家の、誰か……なのか?」 「はい、よくご存知ですね! さすが有名人だなぁ〜、由季央くん」 「くっ……」  なぜだろう、今僕は鈍器で殴られたかのようなショックを感じた。『由季央くん』と親しげに名前を呼ぶ直を、真正面から見ることができなくなった。  ——こんな可愛らしいオメガが、由季央の見合い相手なのか……!?  由季央はなんだかんだ気乗りのしないようなことを言っていたけど、今のこの子を目の前にしたら、フラッと惚れてあっさり結婚する流れもあったりして……という予感に、僕はくらくらと目眩を覚えた。 「真山さん? どうしたの? 顔色が悪いような気がするけど」 「い、いや……大丈夫、大丈夫……」 「そういえば、真山さんはどうしてここに? 今日はすごくかっこいい格好してるね」 「あ、ええと……これは、あの」  何をどう説明すれば角が立たないのか考えたいところだが、状況が複雑すぎてうまく思考が回らない。  あわあわと唇を震わせていると、ふわ……と嗅ぎなれた甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。 「春記! おい、何やってんだそんなとこで」 「あっ……!!」  練習を終えたのか、塚原を従えた由季央が悠然とした足取りでこちらに近づいてきた。そして、青くなっている僕を見て怪訝な表情をしたかと思うと、僕と会話をしていた相手に目をとめる。  そして、直もゆっくりと後ろを振り返り、由季央の姿を認めたらしい。 「わぁ……由季央くん! ひさしぶり!」 「え……? あぁ、薬師院家の……」  やはり顔見知りなのだ。由季央は直の前に立ち、小さく会釈をした。彼が見合い相手だということを、由季央は知っているのだろうか。 「もー、やめてくださいよ、そんな他人行儀な挨拶。僕のこと、覚えてないんですか?」 「覚えてるよ。えーと……すぐるくん、だっけ?」 「あはははっ、違いますよ〜! すなお、です。すぐるは僕の姉の夫の名前ですって」 「ああ……ははっ。悪い悪い、何年も会ってないから、ちょっとこんがらがって」 「もう!」  怒ったような顔をしつつ由季央を見上げる直の可愛らしさは百点満点だ。ちょっと怒り顔をしつつも目は微笑んでいて、あざとい上目遣いとの合わせ技でものすごく可愛い。  相手が可愛いとやはり気分がいいものなのか、由季央もいつになく笑顔が優しいような気がする。  二人が談笑している姿など、360度どこから見ても完璧にお似合いなカップルだ。  ……悔しいほどに。  ——……なんだよ由季のやつ、デレデレしやがって……  なんだか非常に面白くない。仏頂面をしている自覚がある……が、ここでもやはり感情的になってしまっている自分に気づき、ものすごく嫌な気分になった。 「ていうか、真山さんと由季央くんて知り合いなの?」 「あー……うん、そうだよ。付き合ってんだ」 「…………へ?」  僕が気持ちの整理をしている間に、由季央はサラッととんでもないことを言い放ってしまった。  直の目が点になり、ものすごく不思議そうな顔で僕を見て、また由季央を見て……場の空気が、凍りついているような気がする……。 「えーーー!? そ、そうなの……!? え、なんで!? 真山さん、ボディガードでここにいるとかじゃ……!?」 「あ……えー……そのー…………」  案の定、直は丸い目をさらに丸くして、なんとも言えない微妙な表情を浮かべている。驚きつつも笑いたいような、堪えたいような……何とも言えない顔だ。  そして僕も、もはやどういう顔をしていれば正解なのかもはやわからない。 「なに? お前らも知り合いなの?」  ひとりでクールな顔をしているこいつが憎い。僕はジロリと由季央を睨んだ。 「昔……警護を担当したことがあるんだよな……」 「へぇ、そうなんだ。すげぇ偶然じゃん。それよりお前、なんでこんなとこにいんだよ。俺のそばを離れるなってあれほど、」 「う、うわーーーーーー!! 言っていいのかそんなこと!!?」  未来の花嫁の前でなんてことを言うのかと、僕は大慌てで由季央の口を塞ぎにかかった。だが由季央はぱしっと僕の手首を掴んで、「はぁ? 何言ってんの」と眉を寄せている。 「だ、だ、だ、だって!! この子が君の見合い相手だそうじゃないか!!」 「え……? そーなの?」  ギョッとしたような顔で、由季央は直のほうを見遣る。そしてまた、直もひきつった妙な笑顔だ。  意図せず誕生したいびつなトライアングルのせいで、冷や汗が止まらない。

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