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16、論点

「貴親さまから、くれぐれも由季央くんのことを頼むって言われてたんだけど……え? どういうこと……?」 「え、あー……」  もはやどうにかなるレベルではないくらいにこんがらがったこの空気を、どうしたらいいというのか。冷や汗は噴き出すし口の中はカラカラに乾いているが、僕はかろうじて口角を持ち上げ、直にぎこちない笑みを浮かべて見せた。 「つ……付き合ってはいるけど、まぁ、その、一時的なものっていうか。べつに、由季と僕は将来的に結婚する間柄ではないわけだし……」 「あ、あ〜……そうだよね。真山さんと伊月家じゃ、ちょっと釣り合いが取れないだろうし」 「そう、そうなんだ! それに僕らはまだ清い関係のままで何もしていないし、妙な勘ぐりをする必要はないから、」  そこまで早口で言い放ちかけたところで、ぐっと手首を強く掴まれた。ぎょっとして隣を見上げると、空を射抜くかのように鋭い目つきをした由季央の横顔がそこにある。 「えーと。薬師院直くん、だっけ。言っとくけど俺は、君と見合いをする気も結婚する気もないんだ」 「へっ……」  どこまでも面倒臭そうなぞんざいな口調で、由季央はきっぱりとそう言い切った。可憐で愛らしい直の表情がすっと冷えたかと思うと、ピンク色の唇がさらに赤みを増してゆく。 「えっ……で、でも。僕は、ずっとそのつもりで……」 「貴親はな、血縁のない邪魔な俺を、適当なオメガとくっつけて婿入りさせて、あの家から追い出したいだけなんだわ」 「血縁がない?」 「そう。つまり君は、貴親に体よく使われようとしてるだけってこと。巻き込んで悪かったな」  あまりにも冷徹な台詞を直にむかって言い放つ由季央を前に、今度は直の頬がじわじわと赤く染まり始めている。ショックを受けた次にやってきたのは怒りだろうか。怒っていてもなお、きゅるんと大きな目はキラキラときらめいている。 「……そ、そんなの知らない。……なんだよそれっ」 「そういうわけだから、もう俺とは関わらない方がいいと思うけど?」 「……じゃあ、真山さんとはどういう関係? ただのセフレかなにかってこと?」 「セ……」  見るからに上品な直には不似合いな『セフレ』という言葉が飛び出してきたことに、僕はなんだか妙なショックを受けてしまった。即座に否定しようとしたけれど、由季央の落ち着いた声がぴしりとそれを遮った。 「セフレじゃねーよ。こいつは、俺が俺の意志で選んだパートナーだ」  なんの迷いもなく、由季央はきっぱりとそう口にした。それが建前上の嘘だと分かっているのに、しょうこりもなく、僕の胸はきゅんと変な音を立てる。  だが、ときめいている場合ではない。直の目線が僕に移ってきたからだ。さっきまで僕に向いていた親しげな眼差しは、今やすっかり生ぬるいものへと変貌している。 「……ふーん、なるほどね。なんだ、そういうことなら最初からそう言ってくれたらよかったのに」 「す……直くん。あの」 「こんなところでつまらないメロドラマを見せられることになるなんてなぁ。あー萎えた」 「萎え……」  僕を一瞥して、直はくるりと踵を返して立ち去ってゆく。無表情でも可愛い顔だが、いまいち彼がどこまで怒り狂っているのか分からない。  それだけに僕は焦って、慌てて直の後を追いかけようとした。が、掴まれたままだった腕をさらに強く握り込まれて、僕は素早く由季央を振り返る。 「おい! もっと他に言い方なかったのか!? あんなにかわいくて若い子を冷たく追い払うなんて……!」 「は? なんなんだよお前、あいつが現れた途端、急に見合い賛成派みたいな態度とりやがって」 「だっ……だって! あの子はいい子だぞ!? しかもあんなに可愛らしくて、いいとこの子で、健気に由季を支えてくれそうなオメガじゃないか!」 「はぁ? どこが? お前人を見る目なさすぎんだろ」 「なっ!? 失敬な!!」  ついつい声を抑えることを忘れていたせいで、ギャラリーの視線が一斉にこちらを向く。ただでさえ、さっきから周囲の関心を引きまくっていたのだ。  由季央は小さく舌打ちをして、そのまま僕の腕を引っ張って歩き出した。  そして、連れてこられたのは廊下の突き当たりにある非常口のあたりだ。ひと気もなく、薄暗い場所だった。  そこで由季央は僕に向き直り、腕組みをしてさっきの口論の続きを始めた。 「じゃーなんだ? お前、俺があいつと見合いして結婚すりゃいーって思ってんのかよ」 「そうは言ってないけど……っ! ただ、もっと他に言い方ってもんがあるだろって言ってんだよ! 直くん、傷ついてただろうが!」 「そーは見えなかったけど?」 「はぁ!? 君の目は節穴か!? さては君、実はモテないだろ!?」 「そっ、そんなこと今関係ねーだろ!! 論点をずらすな!」 「論点ね。あーはいはい戻しますよ。今すぐ戻してやるよ! そうだよ! 君たちはとてもお似合いだった。しかも彼はいい子だ。見合いをするには良い相手いじゃないかって……っ」  だん、という音とともに、僕は由季央に壁ドンをされていた。しかも両腕タイプ。  由季央の腕の中に閉じ込められながら、きつい眼差しでじっと睨みつけられて、僕はややたじろいだ。由季央の瞳には、傷つきと、やりきれない悲しみのような色が見え隠れしている。 「……な、なんだよ」 「春記……それマジで言ってんの?」 「えっ。そ、それは……ま、マジだ、よ……」 「……じゃあ、朝のアレはなんだったんだよ。お前、こっそり俺にキスしただろ」 「ぐぅっ……」  ——こ、こいつ……っ!! 起きていたのか……!?  早朝、こっそり由季央にキスしたことがバレていたらしい。さーーーーっと血の気が引いていく。 「あ……あれは、その……」 「なんだよ」 「っ……ご、ごめん。寝顔が可愛くてつい……」 「……」 「そ、それに……君からはずっといい匂いがしてて、その……あれだ。きっと君の近くにいすぎるせいで、アルファフェロモンにあてられてるだけだから……」  冷や汗をかきながらしどろもどろになっている僕を見下ろしていた由季央が、壁に手をついたままはぁ〜〜〜とため息をついた。  僕の短絡的な行動と思考に呆れているのか……? と思った瞬間、なんだか無性に腹が立ってきた。自分だって、ネックガードを外した僕にいやらしくせまってきたくせに……!! 「由季だって、僕のうなじに食いつこうとしてきたじゃないか!!」 「そ、それは悪かったと思ってるけど……!」 「おおかた、僕のオメガフェロモンにクラッときて、スケベなことをしたくなったのかもしれないけどな! ああいうことをするにはまず同意ってもんが……!」 「うー……あー……もう、お前と話してるとわけわかんなくなってくんだけど!」  由季央は焦れたようにそう言ったかと思うと、今度は直接、僕を腕の中に抱きしめた。  僕の全身を包み込む確かなぬくもりはあまりにも唐突で、これが現実だと理解するまでに随分時間がかかってしまったが…… 「はっ……は、はっ、はなせっ!! なんなんだいきなりっ……!」 「あぁもう……! いーからちょっと黙ってじっとしてろ!!」 「っ……」  密着した身体を伝って、由季央の声が直接響く。その声にはいかんともしがたい必死さが滲んでいるような気がして、僕は由季央を突き放そうとしてしまう腕から力を抜いた。 「仕事とはいえ……貴親から庇ってくれたときのお前のセリフ、かっこよかったし嬉しかったよ。なのにそんなふうに言われたら、話ちげーじゃんってなるだろーが」 「う……」 「それに俺……お前に、キ、キスされたことも、嬉しかったんだぞ」 「えっ……!?」  あまりにも意外な言葉が聞こえてきて、僕は耳を疑った。腕の中で身じろぎする僕をさらに強く抱きしめて、由季央は微かに乱れた息を整える。 「俺……これまでまでずっと、他人に興味が湧くことなんて一度もなかった」 「えっ……」 「俺の人生にはなんの影響もない、他人はどこまでいってもただの他人だ。多少誰かと親しくなっても、結局いつかは終わるからな」 「そ、そんな寂しいことを……?」 「けど、別にそれでよかったんだ。伊月の家を出て、海外で仕事ができるようになって、俺はようやく自由になれた。もうこれ以上、誰かに縛られて生きるなんてまっぴらごめんだと思ってた」  とつとつと語られる由季央の心のうちを、僕は息をひそめて聞いていた。こんなに華やかな容姿をして、優れた音楽家として活動しているというのに、自らを孤独に追いやるような生き方を選んでいるとは……。  妙に物悲しい気持ちになってしまう。僕は由季央を慰めたくて、そっと彼の背中に手を添えた。すると由季央は、やや躊躇いがちな口調でこうつづけた。 「けど……春記といると、なんか調子狂うっつーか、目が離せねーっつうか」 「ん?」 「色気もねーし乱暴だし口うるさくて、なんだこいつって思ってたのに。急に俺のこと褒めたり庇ったりして……マジやることなすことわけ分かんねーっていうか……」 「えーと……君は僕に喧嘩を売ってるのか?」 「違う。ただ……もっとお前と一緒にいれば、この気持ちの意味もわかんのかな……って」 「へ……?」  ——……もっと、一緒に?   がば、と顔を上げて由季央を見上げると、面食らったように目を瞬くサファイア色の瞳と視線がぶつかる。  腕の中に抱きすくめられているから、顔を上げれば鼻先が触れそうなほどに顔が近い。僕の心臓もばくばくと騒々しいが、由季央もまたごくりと喉を鳴らし、少し緊張気味な面持ちだ。  数秒見つめ合ううち、由季央の眉間に刻まれていたしわがふっと緩む。そして、困ったような表情へと変わっていった。 「フェロモンがどうとか言うけどさ。お前はアルファなら誰にでも、ふっわふわしながら近寄っていくのかよ」 「そ、そんなこと、ない……」 「俺だって同じだ。お前がオメガだからって理由だけで、あんなことしたわけじゃない」  ふと由季央の腕の力が緩み、密着していた身体が少し離れる。だが、由季央は片手を僕の腰に回したまま離そうとしない。なおも熱い眼差しで射竦められ、僕は身じろぎができなかった。  由季央の匂いとぬくもりに包まれていると、心地よさのあまり目から力が抜けてゆく。全身の筋肉が弛緩してゆくような恍惚感に支配されかけている僕を見下ろして、由季央は優しい微笑みを浮かべた。 「……いや? 俺に触られんの」 「い……いやじゃない」  ——むしろ、心地良くて心地よくてたまらない気分だ。もっと由季に触れていたい……  無意識のうちに腕を持ち上げ、僕は利き手で由季央の頬にそっと触れた。柔らかくて、すべらかな肌。そしてそのすぐそばにあるのは、形のいい唇だ。  弾力のあるこの唇がうなじに触れた時の痺れるような快感を思い出し、僕は小さく身震いした。徐々に、呼吸が速くなっていくのがわかる。  このままキスしてほしい。確かな感触を与えてほしい——……身体の奥底からじわじわと全身を支配しはじめようとする恍惚感に身を委ねようとした瞬間。  女性の甲高い悲鳴が、僕の鼓膜を震わせた。

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