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17、許せない行為
目の前に、バキバキに破壊された楽器が無惨な姿で転がっている。
駆けつけた由季央の頬からさっと色が抜け、呆然とした表情でその場に立ち尽くしている。そして、破壊された楽器のそばで啜り泣いている女性アルファの姿と、彼女の肩を支えるもう一人の奏者の姿も……。
——僕が浮かれているからこんな事態を招いたんだ。クソっ……! 一体誰がこんなことを……!?
ぐ……と奥歯を噛み締め、拳を硬く握りしめる。
いつだったか、移動中の車内で由季央にチラリと聞いたことがあるざ、プロ奏者の使用する楽器は相当値段の張るものが多いという。由季央ヴァイオリンも例に漏れず、数百万はすると言っていた。
値段の高額さにも驚かされたが、傍らに置いたヴァイオリンケースを見つめる彼の愛おしげな眼差しの方が、強く印象に残っている。
由季央はケースの上に手を置いて、「怪我のせいでしばらく触ってやれてねーけど。楽器はもう俺の身体の一部みたいなもんなんだ。手元にないと落ち着かないし、あれだけ練習で弾きまくってんのに、風呂とか入ってる時に音が聴きたくなったりする」と言っていた。
音楽家にとって、楽器は身体の一部。彼ら彼女らの大切なパートナーだ。
それを、躊躇いなく破壊できてしまう犯人のことを、僕は心底憎いと思った。
すると、泣き崩れる女性の傍らで壊れた楽器を呆然と腕に抱えていた奏者の男が突然立ち上がり、「警察、警察呼べよ!! ふっざけんじゃねーぞ!」と大声で騒ぎ立てながらバタバタと部屋を駆け出してゆく。
その男と肩がぶつかり、由季央はようやくハッと我に返ったようだ。唇を真一文字に結び、壊れた楽器の元に歩み寄ってゆく。そして、床に座り込んで泣いている女性アルファと、もう一人の仲間の肩に手を添えた。
すると、泣いている女性の肩を抱いていた男性奏者が、赤く充血した瞳で由季央を見つめた。彼も泣いていたのかもしれない。
「伊月くんごめん……!! 僕、ここで楽器のお守りしてるって言ったのに、一瞬席を外しちゃったんだ……その数分のうちに、こんな……」
「いや、初樹 のせいじゃない。こんなことになったのは、俺のせいだ。……ごめんな」
「何で……? 違う、違うよ! ここにいるから休憩してきてって言ったのは僕で……! なのに目を離したりしたから……!!」
「いや、違うんだ」
取り乱す仲間の手をぎゅっと握り締め、由季央はゆっくりと首を振った。僕の位置から由季央の表情は見えないが、きっと、ひどくこわばった顔をしているに違いない。
すると、女性アルファが泣き濡れた顔を上げた。
「伊月……。あんたのが一番ひどい。叩き壊されてるだけじゃなくて、踏みつけられてるみたいだった……」
「うん……。それより、紗南 のヴィオラも……」
「……う、うう〜〜……」
再び泣き始めた女性の肩を抱き、うなだれるもう一人の男性アルファの肩に手を置いて、由季央もとうとう項垂れた。
音楽家たちの傷つきを肌で感じる。由季央の顔を見なくても、彼の痛みと罪悪感がそのまま僕に伝わってくる。
由季央の大切なものを守ることが出来なかった。
情けなくて、不甲斐なくて、握り締めた拳の中で、爪が手のひらの皮膚をつぷりと刺す。そして同時に腹の奥から轟音を立てて燃え上がる怒りの炎だ。僕は素早く辺りを見回した。
女性の悲鳴を聞いて集まったギャラリーが、扉の外から部屋を覗き込んでいる。
このフロアでは、東山の結婚式、もしくは披露宴に招かれている人間しかいないはずだ。となるとやはり、犯人はとっくにこの中に紛れ込んでいたということになる。
だがそのとき、フロア内に穏やかなメロディが流れた。そして、上品な口調で『まもなく、東山様、浮部様、ご両家の婚礼の儀が執り行われます』というアナウンスが聞こえてくる。
肩を抱き合う三人ははっとしたように顔を見合わせ、ようやくよろりと立ち上がった。そしてそれぞれに壊れた楽器を拾おうとしている男性奏者に向かって、由季央が「このままにしとこう。警察、呼びに行ったみたいだし。状況が分かった方がいいだろ」と冷静な口調でそう言った。
「う、うん……わかった」
「歩けるか、紗南?」
「大丈夫。東山先輩のことは、ちゃんと祝ってあげたいし」
と、紗南と呼ばれた女性アルファは涙を拭いて、キリッとした顔になる。そして、初樹(はつき)と呼ばれた男性アルファも頷いた。
二人を先に会場へ向かわせ、由季央は入り口付近に立っていた僕のそばで足を止めた。
「春記、行こう」
「……いや、僕は外にいるよ。そもそも僕は披露宴にしか招待されていないし、挙式会場の中なら、東山家が準備した警護もいるだろうから」
「……でも」
「僕は少し周囲を探ってみる。仲間とも連絡を取り合って、そばに不審人物がいないかどうかチェックするよ」
僕がそう言うと、由季央はやや眉をひそめた。どことなく不安げな表情だ。……だけど僕は、なんとしてでも犯人を確保しなければという焦りに追われている。無理に笑みを作って由季央の上腕を軽く叩き、「大事な先輩の新たな門出だろ。きちんと祝ってやらないとダメだ」と言い聞かせる。
すると由季央も浅く頷き、諦めたようにため息をついた。
「……わかった。気をつけろよ」
「そっちもな」
そうして、由季央と音楽仲間たちを見送ったあと、僕は甲田さんと合流するべくスマートフォンを取り出した。
これからここにも警察が訪れて騒がしくなるだろう。挙式中の新婚夫婦たちにはまだ伝わっていないかもしれないが、披露宴も無事に執り行われるかどうかわからない状況だ。
——由季のやつ、気に病むかもなぁ。東山さんの人生の節目だってのに、こんなことになって……
こうして犯人の暴挙を許してしまった要因のひとつには、僕自身の不甲斐なさもある。これ以上、好きにさせるわけにはいかない。
「……もしもし、真山です。ええ……そうなんですよ、それで——」
エレベーターホールへ向かいながら手短に状況の共有をおこなっていたが、ふと僕は言葉を切った。エレベーターホール手前に置かれた小さなソファセットに、薬師院直が項垂れるようにして座っている。
青い顔をして、なんだかひどく体調が悪そうだ。僕は「……またすぐ連絡します。ええ、甲田さんも四十八階まで上がって待機して下さい」と言い残して通話を切った。
「直くん、大丈夫か?」
「あ……真山さん」
具合が悪そうな知り合いを放っておくわけにはいかない。僕は直の前に跪き、そっと顔を覗き込んだ。のろのろと緩慢な動作で身じろぎした直は、僕を見て少し表情を緩めた。
「体調でも悪いのか? 医務室まで送ろう」
「あ……いえ、いつもの発作みたいなものだから。医務室は、大丈夫です……」
「そうか。迎えを待ってるのか?」
「はい。付き人が特別に部屋を取ってくれたんです。でも、薬を車に忘れて、取りに行っているところで……」
「ああ……黒服の。今ここは物騒だから、一人で待たせるのは不安だな。僕が部屋まで付き添うよ」
先に立ち上がり、僕は直に手を差し伸べた。すると直は潤んだ瞳で僕を見上げて手を取ると、ふらふらと立ち上がる。
「ありがとうございます……。でも、真山さんは式には出ないの? 時間大丈夫ですか……?」
「僕が参加を許されてるのは披露宴からだから。まぁ、二十分くらいで戻ってくれば問題ない」
「……そうですか」
直の肩を支えながらエレベーターに乗り、このフロアより三階降りた客室階で降りる。由季央と僕が宿泊した部屋と同階だ。
ふと、朝の出来事や、由季央に抱きしめられたことを思い出してしまい、直を支えて歩きながらも頬が熱くなる。
——……あれって、やっぱり、そういう意味なんだよな……。由季は僕のことを、憎からず思ってるってことだよな……キスされて嬉しかったとか、もっと一緒にいたいとか……つまり、そういうことなんだよな……
とはいえ、その直後に彼の愛器を破壊されてしまうという事態を招いた。結局どこまでも無能な僕に、由季央はがっかりしてしまっただろうか。幻滅してしまっただろうか。
——かっこわるいって、思ったよな……僕は何もできなかったんだから……
上がったり下がったり、心の動きが忙しない。由季央と出会ってからこっち、これまでの人生で感じたことのない感情に踊らされている。
「……さん、真山さん」
「…………あっ、な、何!? どうした!?」
「そっちこそどうしたの? ここ、部屋着いたから……」
「あ、ああ……」
ぼんやり考え事をしているうちに目的地に到着したらしい。ここは廊下の突き当たりの角部屋だ。観音開きの白い扉が、僕の目の前に静かに佇んでいる。
「じゃあ、僕は行くよ。くれぐれも部屋から出ないように……」
「ねぇ、待ってよ。付き人がくるまで部屋にいてくれないの?」
「内側から鍵をかければ大丈夫だ。だから僕は——……」
上品なワインレッドの床には絨毯が敷き詰められていて、足音が響かない。……僕は気づかなかった。
「っ……!! な、なんだお前ら……っ」
突如として僕の背後に現れた直の付き人二人組に、背後から羽交締めにされ、大きな手で口を封じられる。
「んんんーー!! んぐーーっ!!」
僕よりも二回りは図体のでかい男たちだった。僕が多少暴れたところでビクともしない。全身で暴れ足をバタつかせながらくぐもった声を上げて大暴れしている僕を、直は冷ややかな目で振り返る。そして黒服男たちに、怠そうな口調で命じた。
「はぁ……うるさ。ほら、とっとと部屋に入れちゃってよ」
「んんんっ!?」
——な、なんだって……!? どういうことだ……!!?
「んんんーっ!! んーーーー!!」
大暴れも虚しく、僕は敢えなく部屋の中へと引き摺り込まれてしまった。
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