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19、ああ鎮静剤
「なんだよ……いいところだったのに。あいつらやっと来たのか?」
もはや意識も朦朧としはじめている僕の腹の上にまたがっていたヨシが、ドアのほうを見やりながら舌打ちをしている。
その直後、バン!! と部屋の中に派手な音が響き、ドアが荒々しく開け放たれた。
ムキムキの逞しい肩でタックルを決めたのであろう甲田さんが部屋の中に転がり込んでくる。そして、その背後から現れたのは由季央だった。緊迫感と怒りの滲む表情のせいか、彼のサファイア色の瞳は冷え冷えと燃えるような色を湛えていた。
その鋭い瞳で、由季央は僕とヨシの姿を捉え——その次の瞬間、由季央はゆらりと駆け出した。そして、矢のような速度でヨシの横っ面を蹴り飛ばす。
「ぐごっ……!!」
硬い革靴での蹴りを思い切り頬に食らったヨシは、もんどり打ちながら床に転げ落ちた。そしてそのまま、ぐったりと倒れ伏してしまったようだ。
息を乱すでもなく、由季央は相手を射殺すかのような酷薄な目つきでヨシを見下ろしている。凍るように冷たい眼差しと色の抜けた唇。沸点を超えた怒りが、由季央の美貌をさらに際立たせているように僕には見えた。
力の入らない身体で仰向けになったまま、僕は由季央の名前を呼んだ。
「……由季……」
ぴく、と由季央のまつ毛が揺れ、視線がようやく僕の方へと向けられた。すると白かった頬が、見る間に紅潮して——
「何やってんだバカ!! あんなやつにホイホイついて行ってんじゃねぇよ!!」
「んなっ……」
ここはてっきり「無事でよかった……!!」と熱い抱擁をしてもらえるところだと思っていたのだが……思いっきり怒られた。
ついさっきまで、「もうどうにでもなれ」という萎えた気持ちに支配されていたことが嘘のように、ムカムカムカ〜〜〜と怒りが湧き上がってくる。
僕は乱れたシャツの前をかき合わせながら、ゆらりと上半身を起こした。
「バカとはなんだ!? あいつが、具合が悪そうにしてたから……!! だから、僕は……」
「あいつはそんなしおらしいタマじゃねーだろ! あいつの目ぇ見て分かんなかったのかよ!?」
「えっ……」
「ほんっと人を見る目がねーな!! バカ春記!!」
この部屋へ来てからははっきり直の侮蔑が伝わってきていたけれど、それまでは気づかなかった。てっきり、直は僕に懐いてくれていると思っていた。
同じオメガだし、二年前の直はとてもたおやかで従順だった。この年齢になってもその性根は変わっていないと思っていたのだが……。
二年もあれば人は変わる。
名家に生まれついたがゆえの鬱屈のせいか。この二年であのバカ男にハマり、おそらくは妙な薬を使ったセックスにもハマってしまったのだろう。世間知らずがゆえに正しい判断さえもできないまま成長し、こんな犯罪を犯すに至ってしまったのかもしれない。
甲田さんと『exec』の見知ったメンバーに取り押さえられ、口汚く僕や由季央を罵っている直の姿を視界の端に捉えながら、僕は重いため息をついた。
——……そうだな、バカは僕だ。散々彼を罵ったのに、全部自分に返ってきた。
項垂れる僕に、ばさっと上着が羽織らされた。僕のものよりもひと回りは大きい由季央のジャケットだ。焦がれていた香りとぬくもりに包み込まれて、過敏になっている肌がいっそう震える。
ほっとすると同時に、自分のバカさ加減も思い知らされて、ポロポロと涙が溢れた。
人前で泣くなんて恥以外のなんでもない。だから早く涙を止めたかったのに、後から後から涙の粒が溢れてくる。
すると、僕を包み込むジャケットごと、由季央にきつくきつく、抱きしめられた。
「マジで心配したんだぞ! こんな目に遭いやがって……!!」
「ううっ……う……」
「はぁ……間に合ってよかった……」
「ううう〜〜ごめん、ごめん……」
ぎゅう、と由季央にすがって泣きながら、僕は嗚咽混じりに謝った。すると由季央は僕の後頭部を撫でながら、「いや……こっちこそ、怒鳴って悪かった」と囁いた。
僕を落ち着かせるように頭を撫でられ、頼もしい腕に抱かれていると、ふたたびぼうっと頭の芯が甘く痺れてくるような感覚が戻り始める。
「っ……は……由季……」
こうして抱かれているともうだめだ。由季央が欲しくて欲しくてたまらない気分になってくる。薬でヒートを管理してきたことによる副作用で、多少意識がボーッとすることはあったけれど、それとは比べ物にならないほど身体が熱い。
「……由季、あつい……」
「お前……なんか打たれたのか? これ……」
「うん……そうなんだ。ヒートを起こす違法のクスリみたいなものらしくて……」
「ったく……お前は」
僕を間近に抱きしめていたせいだろうか。まなじりをほんのりと朱に染め、色っぽい目つきになっている。
由季央に抱きしめられているだけで、ぞくぞくとさらに感覚が鋭敏になってゆく。見つめられているだけで幸せだ。由季央の香りが鼻腔いっぱいに広がって、脳を直接愛撫されているかのように淫らな気分が高まってゆく。
「……はぁ、っ……はぁ……どうしたらいいんだ、こういうとき……」
由季央のシャツに縋り、細身に見えて意外と逞しい胸板に額を寄せる。いつにも増して由季央の肉体を生々しくリアルに感じ、きゅんと腹の奥が甘く切なく疼き始める。
——これがヒート……。これ……このままお互いどんどんいやらしい気分になって、僕は自我を失うほどに激しく抱かれてしまうのかな……
世間一般でよく耳にする『発情期セックス』の話がもわもわと頭の中に浮かんでいっぱいになり、僕は羞恥とも期待とも取れないような複雑な感情を込めて、由季央を見上げてみた。
てっきり、キラキラと潤んだセクシーな瞳がそこにあり、「それなら、俺がお前を抱いて楽にしてやる……」などという甘いセリフを聞くことができるかも……! と胸をときめかせていたら……。
「誰か鎮静剤をくれ!! 春記が薬を打たれてヒートを起こしてる!」
「あらやだ!! わかった、すぐ飲ませたげる!!」
と、暴れる直と気絶したヨシを仲間に託した甲田さんが、ムチムチのジャケットの内ポケットからピルケースを取り出し、僕の傍にさっと膝をつく。
由季央にもたれながら、僕は「……あ〜鎮静剤。鎮静剤か〜……」と呟いた。
事件がらみで、意図せずヒートを起こしてしまったオメガやアルファのために、僕らボディガードは任務中はかならず鎮静剤を所持することになっている。
暴れる相手には即効性のある注射タイプ、そして僕のように脱力する相手にはピルタイプのものを投与する権利を与えられている。
暴れるアルファはそうそう手がつけられないし、オメガフェロモンを香らせ続けさせてしまうと、周囲にいる無関係の人々にまで影響を及ぼしかねないからだ。
今日は通常任務中の装備ではないから鎮静剤を持ち合わせてはいなかったけれど……なるほど、がっかりだが賢明な判断だ。がっかりだが。
甲田からペットボトルの水と薬を受け取り、ごくんとそれを飲みくだす。
「……真山ちゃん、飲めた? すぐに眠気が来ると思うから、どっか別室手配しとくな」
「はい……。あ、あの……あいつらが言ってたレイプ要員はどうなりました?」
「ああ、とっくに御用。明らかにこのハイソなホテルには不釣り合いなチンピラがぞろぞろ現れたから、エントランスですぐさま確保よ」
「……ああ、なるほど」
『レイプ要員』という言葉を聞き、由季央の眉間にぐっと深い皺が刻まれる。その不安げな怒り顔を目の当たりにして、僕は今改めて胸を撫で下ろした。見ず知らずの男たちに弄ばれる可能性もあったのかと思うと、嫌悪感のあまり肌が粟立つ。
背中を支える手のひらのぬくもりに安堵をもらいながら、僕は由季央にこう尋ねた。
「……すぐ、この場所がわかったのか?」
「簡単だったよ。直のやつ、実名でフツーにこの部屋取ってたんだ。お前の姿が見えないし連絡もとれねーから、甲田さんたちがすぐに調べてもらった」
「……なるほど」
直のやつには、策を弄するという考えがなかったらしい。名前の通り素直な性格なのか、救いようのないバカなのか……ともあれ、その単純さに救われた。
徐々に徐々に、頭と瞼が重くなってゆくのを感じる。崩れるように由季央にもたれかかってゆくしかない僕の肩を、大きな手がしっかりと抱きとめた。
次第に、周囲の音が遠のいてゆく。ぼんやりと聞こえるのは、甲田さんの「真山ちゃんどうする? こっちで預かろうか?」という声だ。
犯人は分かった。薬師院直とその恋人であるヨシという男は、このまま警察に連行されてゆくだろう。叩けばいくらでも埃が出てきそうな二人だ。きっと芋づる式に、奴らの仲間もずるずると検挙されることだろう。
製薬業界の名門である薬師院家にはかわいそうなことだが、正しく裁かれることを祈るばかりだ。
そう、これで由季央への脅迫と、楽器を壊した件については片がついた。それに、薬師院直が逮捕されるとあらば、見合いの話もたち消えるしかない状況になる。貴親もこれ以上手を出せない。
——……ってことはつまり、僕の仕事はこれで終わりだ……
ボディガードらしい仕事は何もできなかったが、恋人のふりくらいはきちんとできていただろうか。
こんな形で由季央との関係が終わってしまうのかと思うと寂しいけれど、僕が由季央のそばにいる理由はもう何もない。
——鎮静剤で眠っている間にさよならか……? まぁ、そっちの方が寂しくなくていい……
いいようのない悲しみを感じつつも、まぶたはますます重く、泥のような眠気が僕の全身を溶かしてゆく。
だが、ひょいと身体が浮遊したことで、僕は一瞬目を覚ましかけた。どうやら、由季央にお姫様抱っこをされているらしい。……そして、こんな声も聞こえてくる。
「……こいつは俺の部屋に連れて行きます。荷物もまだそのままだし、済んでない話もあるんで」
——ああ……もう少し、由季央と一緒にいられるのか……
彼の身体を伝って聞こえてくる声に安堵して、僕はそのまま深い眠りに落ちて行った。
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