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20、仕事は終わり
僕はふっと目を覚ました。
夢の中をふわふわと気持ちよく揺蕩っていたらしく、心地のいい目覚めだった。
「……ここは……」
ゆっくりと身体を起こして辺りを見回すと、そこは由季央とともに昨晩宿泊したホテルの部屋だ。部屋の中は暗く、あたりの静けさからしても夜なのだろう。重だるさや熱っぽさは消えているけれど、頭の中はまだ夢の中を漂っているかのようにぼんやりとしている。
ふと、衣服を見ると、ホテルに備え付けてあったパジャマを着せられていることに気づく。ズボンのない長いシャツのような形をしたもので、さらりとした綿素材が肌に優しい感触だ。
——……由季が、着替えさせてくれたのかな……
ぼーっとしながら服を見下ろし、両手を見つめる。すると、背後でかちゃりと小さな音が響き、バスルームからサッと光が差した。
「あっ、起きたのか?」
「……あ……うん」
緩慢な動きでそちらを見ると、バスローブを身につけて、タオルで髪を拭いながらこっちに歩み寄ってくる由季央の姿が見えた。
僕は覚えのないパジャマ姿で、由季央は風呂上がりのバスローブ……。
ハッとした僕はババっ!! と布団をめくって自分の股ぐら付近を確認した。……が、何かあった痕跡は一切ない。
ひょっとしてひょっとすると、鎮静剤を飲んだもののヒートがおさまらず、自我を失いながら由季央と発情期セックスにもつれこんでしまったのでは……!? という妄想が花開きかけたけれど、全くそんな痕跡はない。
安堵するやら拍子抜けするやらで、僕ははあ……とため息をついた。
「なに? 布団の中が気になんのかよ」
「……なってない」
「嘘つけ。寝てる間になんかされたと思ったんだろ」
「おおお思ってない!!」
どこからどう見ても動揺しているのが丸わかりだろう。案の定、由季央は「んなことするわけねーだろ」と言いながら僕のベッドに腰を下ろし、シャワーで温まった手のひらで僕の額に触れた。
熱などとっくに下がっているだろうに、由季央が触れた場所だけがかっと熱を持つ感覚がある。
湯上がりの由季央の姿はやたらと色っぽい。無防備にチラ見えしている鎖骨や胸板はしっとりと汗に濡れていて、きめの細かい肌艶が妙にいやらしい。ベッドサイドに座って脚を組んでいるので、裾から覗く太もものサービスショットまで。
しかも、やたらいい匂いだ。由季央がそばにいるだけで、落ち着きを取り戻していたはずの胸が再び騒ぎ出し、ドキドキした。
——な、なんていやらしい格好をしてるんだ……。目のやり場に困る……
「俺ももう寝ようかと思ってシャワー浴びてただけだよ」
「ふ、ふーん……。あ、服……由季が着替えさせたのか?」
「ああ……うん。シャツとかビリビリで痛ましくて、見てらんなかったんだ」
「そ、そっか……ありがとう」
「いや……。ところで、熱は?」
かぁぁぁと頬が熱くなるのを感じながら、僕は由季央の肌から目を逸らした。すると、額に手を当てて熱を測っていた由季央が首を傾げている。
「鎮静剤で熱下がるって聞いてたけど、あんま下がってなくね?」
「そ、そうかな。……身体は軽いけど……」
「そうか。じゃあ、薬はもう抜けたのかもな」
「薬……」
薬という言葉で、男たちに押さえつけられてクスリを打たれた時の映像が蘇る。あの時感じた恐怖、そして拭い難いほどの不甲斐なさを思い出し、僕はぎゅっと布団を強く握りしめた。
「……すまなかった」
「え? なにが?」
「僕は結局、君の依頼に応えることができなかった」
何も守れず、自分もまたあっさりと罠にハマって危険な目に遭い、情けない場面ばかり見せてしまった。仕事としてボディーガード兼恋人役を請け負ったのに、何もかもが中途半端だ。
振り返ってみても、貴親の所業に怒りを感じたり、由季央の意外な可愛らしさにときめいてしまったり、抱きしめられて浮かれてしまったり……冷静さを欠いた行動ばかりで恥ずかしい。
——僕はバカだ。
気を抜くとまた涙が溢れてしまいそうになる。だから僕はあえて大きくため息を吐き、きびきびとした口調でこう言った。
「とはいえ……脅迫犯は見つかったし、君はこれで見合いをする必要もなくなった。あんなことがあったんだ、貴親氏も少しは大人しくなるだろうし」
「……ああ、そうだな」
「僕の仕事は……これで終わりだな」
そう口にしてみてはじめて、由季央との時間が明確に終わるのだということをリアルに感じた。努めて明るい口調を心掛けたはずなのに、僕の唇からこぼれ落ちた声は重く、湿っぽいもになってしまった。
しばらく黙っていた由季央から、小さなため息が聞こえてくる。
「ま、そういうことになるか。色々面倒かけたな」
なんの未練もなさそうなサバサバした口調だ。
実のところ、ひょっとすると引き止めてもらえるかもしれないと淡い期待を抱いていたのだが、そんな期待をこっぱ微塵に打ち壊すほど、あっけらかんとした声だった。
ショックと寂しさのあまり、じわ……とまなじりに涙が浮かぶ。それが溢れる前に、それをぐいと拳で拭った。
すると、不意にその拳を大きな手で包み込まれる。ハッとして顔を上げると、緊張を湛えた由季央の瞳がすぐそばにある。
「……依頼はこれで完了だ。ここからは、春記の本音を聞かせてほしい」
掴まれた手をふわりと握り直されて、指先に由季央の唇が触れた。それは僕を慈しむかのような優しい仕草で、寂しさに打ちひしがれていた胸が一際大きく跳ね上がる。
「へっ……?」
「さっきも言ったろ。もっと……お前と一緒にいたいって」
「あ……」
「お前は? 春記は……俺のことどう思ってんの?」
真摯な眼差しで僕を見つめる由季央の背景が、キラキラと眩い光に満ち満ちて見える。僕の手をとって熱っぽくそう訴える由季央の姿を食い入るように見つめながら、僕はしばし呆然としてしまった。
だが、僕が押し黙っていることに不安を抱いたのか、由季央の眉がじわじわとひそめられてゆく。
「……って、待てよ。ひょっとして、盛り上がってんの俺だけ?」
「えっ!? い、いや、違う!! 僕も、……ぼ、僕だって……!」
「あ〜……いや、無理しなくていいって。そ……、そうだよな。こんな面倒なこと、とっとと終わらせたいよな」
「そんなことない!!」
なにやら気まずげに目線を泳がせ始めた由季央の胸ぐらを掴み、強引にこちらを向かせる。鼻先が触れ合うほどの距離で顔を突き合わせる格好になり、由季央の頬がかぁぁと赤く染まった。……そして僕の頬も、ひどく熱い。
「い、いや、無理すんなって。結果的にお前のことも危ない目に遭わせちゃったわけだし……もうこんなことごめんだよな」
「バカなこと言うな!! こういうことに巻き込まれてこそ僕の仕事だ!! なんの役にも立てなかったけど……」
「そんなことねーよ。俺は、お前がいてくれてよかったと思ってる」
「……そんな気休め……」
「気休めじゃない。……それに」
由季央は何か言いかけて、口を開いたまま言葉を切った。そしてもどかしげに唇を引き結んだかと思うと、ぐいと僕を引き寄せて、強く強く抱きしめる。
バスローブから覗く由季央の肌に直に頬が触れ、ドクン! と胸が大きく跳ねる。強くフェロモンの香りを感じて、再びドキドキと胸が騒ぎ始めた。
「俺はまだ、お前のことあんまり知らない。……知りたいんだ、全部」
「由季……」
「だから……だからもっとお前といたいって言ってんだよ! 何回も言わせんな。な、慣れてねーんだ、こういうの……っ」
僕を抱きしめながら、ツンツン怒ったような口調でそう言うものの、由季央の声音はとても優しい。
僕は由季央の背に腕を回し、肌を伝って響くもうひとつの心音に耳をそばだてながら目を閉じた。
ぶっきらぼうな口振りだが、緊張しているのだろう、僕を抱く由季央の手は小さく震えている。僕より大きな身体に抱きすくめられているというのに、なんだか由季央に縋られているような気分だった。
僕を離すまいといわんばかりの腕の力が、途方もなく愛おしいものに思えてくる。
——ああ……もう、どうしてこんなに可愛いんだろう……
噛み締めるように由季央を抱き返し、僕は小さく囁いた。
「僕も……このまま由季と離れたくない」
「……っ、ほんと?」
「うん。……とはいえ、恋愛感情とか、僕にはいまいちよくわからない。でも……」
そっと両手で由季央の頬を挟み、暗がりでも深い青を湛えてゆらめく瞳を覗き込む。
「由季にこうされてると、居心地が良くて……すごく、幸せだと感じるんだ」
「春記……」
「それに、僕は由季をもっと可愛がりたいし、これからもたくさん褒めてやりたい。自分を孤独に追いやるような真似はさせたくないし、もっともっと、たくさんの人に愛されていることを知るべきだと思ってる」
ゆら……と由季央の瞳が潤んで揺れる。僕は、うっとりその瞳に魅入られながら微笑んだ。
「僕は、君が可愛くて仕方がないんだ」
「ハァ……お前なぁ」
由季央に体重をかけてのしかかられ、ベッドの上で組み敷かれる。少し怒ったような顔で頬を紅潮させ、瞳をきらめかせる由季央に軽く睨まれたかと思うと——唇を奪われていた。
だが、それは数秒ですぐに離れてしまう。だが再びもう一度淡く唇を啄まれ、角度を変えて触れ合わされた。
互いの弾力を確かめるような、戯れにも似た淡いキスだ。だというのに、触れ合った場所の柔らかさとぬくもりで、身体中が一気に熱くなる。
「っ……ゆきっ……」
「お前さ……完全に俺のことお子様扱いじゃん」
「そっ……そんなことない! けど、言葉にするとそんな感じになっちゃうんだ!」
「……ははっ……あははっ」
怒りとは違う意味で真っ赤になりながら怒っている僕を見下ろして、由季央がたまりかねたように破顔した。
いつになく無防備で、幼い笑顔だ。不意打ちで花開いた満面の笑みに、またうっかり見惚れさせられてしまう。
かと思えば、由季央はふっと余裕めいた色っぽい笑みになり、小さく舌を覗かせて自らの唇を舐めた。
唇から覗く赤い舌があまりにも淫靡で、僕はごくりと唾を飲み込む。
「さて、いつまで余裕ぶってられんのかなー?」
「なんだよ。ど、どういう意味……?」
「……こういう意味だよ」
由季央は艶やかに微笑みながら身を乗り出して、さらに深く僕の唇にキスを仕掛けてきた。
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