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24、伊月龍之介

 由季央とともに踏み込んだ場所は、いつぞやの客間ではなく広々としたホールのような部屋だった。  畳敷ではなく板張りの床で、天井が高く窓も大きい。部屋の中央には飴色のグランドピアノが悠然と鎮座しているが、それでも有り余るほどの広さがある。  そのグランドピアノのそばで、和装の貴親が一人の男の上に馬乗りになっていた。豊かにウェーブした灰色の髪を、肩下まで長く伸ばした男だ。その髪色とどっしりとした大柄な体躯とあいまって、まるで毛並みの豊かな狼のような風格を漂わせている。  その男もまた着物姿だが、貴親にマウントポジションを取られるまでのあいだに激しい格闘でもあったのか、裾はめくれ筋肉質な太い脚が露わだ。  赤く腫れ上がった頬を見るに、一発二発貴親に殴られた様子もあり……。 「おい、何してんだ!!」  部屋に飛び込むと同時に由季央が声を張る。すると、男の胸ぐらを掴んでいた貴親がキッとこっちを睨みつけてきた。その眼差しの凄みに、僕は一瞬踏み込むのを躊躇った。  憤怒と激昂を如実に表すかのように、涼しげに整った双眸は潤み、白い頬は火照ったように紅潮している。この間は綺麗に撫で付けられていた髪は乱れ、貴親の細面に筋を描いていた。  由季央と、そして僕の姿を認めた貴親の目に、更なる剣が宿って鋭くなる。激しいものを必死で押し殺したような低い声で、貴親は唸るようにこう言った。 「……うるさい。外野は黙っていなさい」 「外野も何も……龍之介さんに何してんだって聞いてんだ」 「……うるさい……うるさい、うるさいんだよ!! どいつもこいつも、この俺を馬鹿にしやがって……!!」 「お……俺?」  以前は「私」だった貴親の一人称が、「俺」になっている。僕はそれにも面食らった。  それは由季央も、そして組み伏せられている伊月家当主・伊月龍之介も同じだったらしく、驚愕を含んだ目つきで貴親を見ている。 「た……貴親、いいから落ち着きなさい。何もそんなに怒らなくてもいいだろう」 「うるさい!! お前も黙れ!!」  さらに鋭くどすの利いた声で、貴親が龍之介を黙らせた。いつぞやは「龍之介さん龍之介さん」と当主に従順な口調でいたから、伊月龍之介に付き従う従順な妻のように思っていたけれど……実際は違うのか……?  貴親はギラギラと怒りを湛えたきつい目つきのまま、龍之介を真上から睥睨した。そして、地を這うような低い声で恨みつらみを口にし始めたのだ。 「……なんだよ、『お前は見る目がないね』って。ふざけるなよ。俺はあんたのために……全部、龍之介さんのために方々に手を回して、薬師院家とのつながりを作ったんだぞ?」 「……貴親。だから、そんな重く捉えなくてもいい。私はただ、お前には荷が重かっただろうから、労おうと思ってそう言っただけで……」 「荷が重い? 違う。俺のやったことは完璧だった。ただ、あの薬師院家の次男坊が大馬鹿だったってだけの話だ!! それを……全部俺に押し付けておいて、労い? 何様のつもりだ? 音楽だツアーだコンサートだって好きなことばかりやりやがって……!!」 「す、すまない、それは……すまないと思ってる! だけど私には、全世界に私の音楽を伝える義務がある。私の作り出した音楽は、私にしか奏でられないものだ……!!」 「だから……!! そういうとこだよ……俺がイラついてんのは!!」  ぐいいいいと、貴親が龍之介の襟をさらにぎゅうぎゅう締め上げる。「く、くるしい」と青白い顔をし始めた龍之介を救出せねばと思い立った僕は、急いで取っ組み合いの現場に駆け寄ろうとした。が、由季央に肩を掴まれ、制止される。 「そ、それはお前だって理解してくれていたはずだろう……!! 一番のファンだって言ってくれたじゃないか! だからこそ、この家を支えるために私と番に……っ」 「ふざけんじゃねぇ。まだ十七歳だった俺に甘いセリフで近づいてきたのはそっちだ。まだ世間知らずだった俺なら、自分の好きなようにできると思ったんだろ」 「ち、違う……! いや、まだ未成年だってのは知っていたが……それはその、抗えない本能で惹き寄せ合った結果であって……」 「気持ち悪いんだよ。黙れ」  ——え……この龍之介って男。未成年のファンに手を出して番ったのか……?  世界的に有名な作曲家だというし、なんだか貫禄がありそうな風貌をしているけれど、根っこはただのスケベ親父ということか?   というか、十七歳の頃にこの男と番って、実子の望が十六歳ということは……。  ——貴親はまだ四十歳にもなってないってこと? 想像以上に若かったんだな……  龍之介はすでに還暦が近いと聞いているから、ずいぶんな年の差だ。  年端もいかない少年時代。成熟した男に……しかもファンとして崇めていた相手に言い寄られ、ポーッとなっているうちに番にされ、家のことを全て任されていたということなのだろう。  そう思うと、貴親の頑なさを少なからず理解できる気がした。 「何が『私の音楽』だ、何が『抗えない本能』だ。この数年、俺には抑制剤を与えるだけで発情期もほったらかし。……あぁクソっ、どうして俺はこんなやつと……!」 「そ、それはすまないと思っている! でも私は……」 「でもでもでもでもでも言ってんじゃねぇよ!! あんたのためにこれまでさんざん頑張ってきたのに……!! どいつもこいつも、楽器の一つも弾けない俺を軽んじて……見下して……」  ぽろぽろぽろと、とうとう貴親の目から涙が溢れ出す。苦しげに表情を歪ませながら嗚咽を堪える貴親の姿は、見ていられないほどに痛ましいものだった。 「……母さん」  ふと気づくと、望が由季央のかたわらに寄り添うように立っている。心もとなげに由季央のジャケットをぎゅっと握り、なんとも言えないような悲しげな表情で、父親を罵る母親をじっと見つめているのだ。  その声に、さすがの貴親も我に返ったらしい。我が子を見つめる瞳に理性が戻り、涙を見られたことを恥じるように、ぐいと拳で目元を拭う。 「望。ピアノを弾きたくないなら、もうやめていい。偉大な父親の名に恥じないようにと教えてきたけど、お前の父親は自分のことしか考えられないクズだ。お前も好きなように生きなさい」 「えっ……」 「それに、由季央」  貴親が、疲れた瞳を由季央に向ける。 「お前も、もういい。伊月を名乗りたくないなら、養子に来る前の姓に戻せ。見合いももうしなくていい、好きにしろ」 「……それを言うために、俺らをここに呼んだのかよ」  由季央の声は静かだった。貴親はもはや生気も失せてしまったかのような虚ろな瞳で由季央を見上げ、長いため息とともに項垂れる。  と、そこへ、龍之介の声が割って入ってきた。 「ち、違うぞ由季央。お前たちを呼んだのは私だ」 「なんのために? この夫婦喧嘩を見せるためですか?」 「違う! 私はただ……ようやくツアーも終わったし、今度こそ仕事をセーブしようと思って……!」 「え?」 「貴親に甘えて、やりたいことだけやってきた。……だからもう、これからは彼と家族のためだけに生きようと思って帰ってきたんだが……」  ぴく、と龍之介の和服を握りしめていた貴親の手が揺れる。項垂れていた顔がのろのろと持ち上がり、憔悴しきった瞳が龍之介を見た。 「は……?」 「薬師院家のことは、本当に、ただ苦労かけたなと言いたかっただけだ。君には嫌味に聞こえてしまったみたいだが、私には君を責める権利がそもそもない。全部君に任せきりにして、悪かった」 「……」 「奔放に音楽活動をしている私を健気に支えてくれる君のことを、いじらしいと思っていた」 「へっ……」  色を失っていたかのようだった貴親の瞳に、うるりとした光が戻る。むくりと身体を起こした龍之介は、真摯な瞳で貴親を見つめている。 「今更何を言っても遅いのだろうが……。これからはもっと、家族の繋がりを大切にしたいと思ったんだ。だから由季央にも、こっちに拠点を戻してくれないかと頼むつもりだった」 「……いや、ほんと今更な話ですね。どうせ、こっちに戻しておいて、また都合のいい相手と見合いでもさせようっていう腹なんでしょ」 と、由季央は硬い口調でそう言い切った。だが龍之介は首を振る。 「そんなことは考えていないよ。お前には、番に迎えたい相手がいると聞いたが……」  龍之介の視線が、不意打ちで僕に向く。なんとなくドラマの視聴者のような気分で一連の出来事を眺めていたのに、急にその登場人物の一人に加えられたような感覚だ。ひゅんと背筋が伸びる。 「……ああ、こいつだよ」  ぐいと肩を抱かれる。どういう顔をしているのが正解なのかわからず、僕はひきっつった曖昧な笑みを浮かべて、小さく龍之介に会釈をした。 「は、初めまして……真山春記と申します」 「そうですか。君が、由季央の」 「あ、はい……真剣にお付き合いをさせていただいております」 「そうですか……なるほど」  龍之介は貴親の肩に触れて自分の上からどかせると、居住いを正しながら立ち上がった。  こうして見るとやはり大きい。上背があり、和服姿でも貧相に見えない堂々とした体つきだ。雄大、という言葉が似合いそうな、悠然とした佇まいと穏やかな瞳。こうして面と向かってみると、やはり常人とはまるで異なるオーラを身にまとっている。  その男が、僕に礼儀正しく頭を下げた。僕のような一般庶民オメガに、世界の一流音楽家アルファであるこの男が。 「伊月龍之介と申します。息子が大変お世話になっております」 「あっ……! いえ、こちらこそ……!!」 「この度は、伊月家の騒動に巻き込んでしまい、大変申し訳ありませんでした。怪我をされたと聞いているのですが……」 「あ、ああ、あれは全然! 怪我なんて日常茶飯事ですので!! 全く問題ありません!!」 「それは頼もしい。本当にご迷惑をおかけいたしました」  上官に向かうような心持ちで必要以上にハキハキした口調で応じる僕に、龍之介氏は穏やかな微笑みを向けた。    この男に見つめられ、微笑みかけられるだけで、存在を包み込まれるような恍惚感に満たされる。十七歳だった貴親が墜ちないわけがないだろうなと僕は思った。 「由季央は、尖ったところはありますが、性根は優しい子です。あなたのことも、きっと大切に守ってゆくでしょう」 「あ、は、はい……!」 「息子のことを、どうかよろしくお願い致します」  また改めて深々と頭を下げられ、僕は大慌てで礼を返した。身を起こして隣を見上げると、ちょっと困ったような顔をした由季央と視線が絡まる。  めまぐるしく動く状況に困惑しているようだが、頬はほんのりと朱に染まっている。そして、どことなく安堵の色も浮かんでいた。 「そして望……ごめんな」 「えっ……」 「母さんにぶん殴られて、ようやく目が覚めたよ。私のせいで、望にも無理をさせていたんだね」 「い、いえ……そ、そんな……そんなこと」  父親と言葉を交わし慣れていないのだろう。望がわたわたと焦りながら首を振っている。  そんな息子の様子を見てさらに柔らかく表情を崩し、龍之介は傍でへたり込んだままだった貴親を抱き起こした。  すっかりおとなしくなっている貴親だが、その瞳はとても雄弁だ。  僕の肩を掴む由季央の指に、かすかなぬくもりと力がこもる。

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