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25、半年後
その半年後。
僕は、由季央の出演するクラシックコンサートの会場にいた。
といっても、聴衆のひとりとしてここにいるわけじゃない。警備会社『exec』が正式に依頼を受け、職場の仲間達とともにコンサートホールの警備に当たっているところだ。
僕とバディを組んでいるのは例によって甲田さん。今日もムチムチに張り詰めたブラックスーツに身を包み、品のいい観客たちの流れを抜け目のない目つきで観察している。
「いや〜すっごい綺麗なホール。由季央ちゃん、すごいね」
「……由季央ちゃんてのはやめてもらえませんか。こっちまで恥ずかしくなってきます」
「そう? まぁ、それもそっか。人の旦那つかまえてちゃんづけはないか」
甲田はいかつい顔をしながら目だけきゅるんと潤ませて、僕のほうをチラ見してきた。その視線がどこに向いているかということは見なくてもわかる。
いまだ愛用している、由季央からもらったネックガードの下。くっきりと僕のうなじに刻まれた噛み跡だ。
僕らは正式に、番となったのである。
「よかったね。これからは発情期の間無理しなくてもよくなったわけだし。ていうか、そもそも発情期の期間は休暇取れるんだから、取ればよかったのに」
「だって、嫌じゃないですか。僕が休暇とったら『あーあいつ今頃火照った体持て余してオナニーばっかしてんだろうな〜』とかって想像されるに決まってんだから」
「んー、それはそうか。他部署のやつらは真山ちゃんのこといまだにちょっとエッチな目で見てるもんね」
「そうですよ。……ま、今後は堂々と休み取らせてもらいますよ。『あいつ今頃あのイケメンアルファとヤリまくってんだろうな』って思われるのは必至ですけど」
「外野には好きにさせときなさい。……けど、いいなぁ。あんなイケメンとエッチ三昧か……。僕までうっとりしちゃうよ」
「さっそくのセクハラやめてもらえますか」
うっとりした眼差しで甲田が見上げているのは、ホールのロビーを飾る100インチのLEDディスプレイだ。
普段は、客席に入れなかった観客が外からコンサートを鑑賞したり、一般人が入れないコンクールの様子などを写しているらしいが、コンサート開催時は広告が表示されるようになっている。
ヴァイオリンを抱き、やや挑発的な眼差しでこちらを見据える由季央の勝ち気な笑みが、でかでかと映し出されているのだ。
普段から何を着ていてもサマになる由季央だが、ビシッとタキシードを身につけている由季央の凛々しさたるや。通りすがる人々ももれなくここで立ち止まり、記念撮影をしつつはしゃいでいる。
年齢問わず女性が多いようだが、紳士然とした老年男性や親子連れもいる。オタクっぽい格好をした男たちもちらほらいて、客層が広いな……と僕は感心してしまった。
「おう、春記。お勤めご苦労さん」
とそこへ、金髪を無造作に遊ばせた痩身の男が、僕のそばへ近づいてきた。
サッと甲田さんが身構えるのも無理はない。こなれた感じの黒い革ジャンの下に襟ぐりの開いた白いシャツを着て、首元や耳たぶにはアクセサリーをきらめかせ、ダメージデニムにエンジニアブーツを履いた派手な男だ。
スラリとした手脚と、小顔を覆う大きなサングラスともあいまって、一般人とはかけ離れた雰囲気を醸し出すその男は……。
「貴親さん……またそんな目立つ格好で」
「そうか? これでも地味な服選んできたんだぞ」
すっかり自分を解放するようになった貴親は、あれ以来和服を一切着なくなった。そして龍之介氏にも「たまには若造りして見せろ」と無茶を言い、時折えらくパンキッシュな格好をさせてはデートを楽しんでいるらしい。
だが、龍之介氏も「素直で従順な君も可愛かったけれど、今の君のほうが刺激的でグッとくるよ……♡」などと言って、人目を憚らずイチャコラするようになったらしく……両親のラブラブっぷりにあてられた望が、時折僕らの家に避難してくるようになった。(兄に会いたいだけかもしれないが)
「望にもそんな格好させてるんじゃ……」
「今日はしてない。あいつは部活終わった後に直接こっちくるから制服だよ」
「そうですか」
ピアノをやめるかと思いきや、望は以前よりも熱を入れてレッスンに励んでいる。
これまでは音楽にどちらかというとネガティブなイメージを抱いていたようだが、家族の雰囲気が変わり、由季央が帰国してすぐそばで音楽活動をするようになって以来、ピアノに接することが苦ではなくなり、純粋に楽しいと思えるようになったというのだ。
最近では、龍之介が直接レッスンを見てくれる日もあり、それも彼の励みになっているらしい。いずれは由季央とともにステージに立ちたいと夢を描く、僕にとってもいじらしい義弟だ。
「俺は楽屋に顔出して来よっかな。春記もいくか?」
「無理です。僕は任務中なので」
「あ、そっか。まぁしっかりやれよ」
ひら、と手を振って、貴親は悠然とした足取りで人混みの中を歩き去ってゆく。その後ろ姿を見送っていた甲田さんが、僕と貴親を見比べながらこう言った。
「あれが姑? すんごい美人」
「ええまぁ、一応」
「しかも若いね、ガラ悪そうだけど」
「まぁ……口は悪いですね。由季に似て」
「元ヤンか何かなわけ?」
「いやいや、元・恭順な妻ですよ。あれでも」
「? ふーん」
何はともあれ、今夜はここに全員集合だ。
今夜のメインは龍之介氏が作曲した、ヴァイオリンとピアノのための協奏曲。
そしてそこでソリストを務めるのは、他でもない由季央と龍之介氏である。
初めての親子共演とあって世間的にもかなり注目度が高く、今日のコンサートにはメディアも多く訪れている。記者たちが行き過ぎた取材をしないように見張るのも僕らの仕事というわけだ。
「……さてと、観客たちもほぼほぼホールに収まったみたいだし、真山ちゃんはホール内の警戒よろしく」
「え。ここはいいんですか?」
「だいじょぶだいじょぶ! 今日のお客さんみんな上品だし、コンサート終わるまではマスコミもおとなしいでしょ」
「はぁ。……じゃあ、お言葉に甘えて」
「はいはい。ダンナの活躍、ちゃーんと見ててあげな」
ばちーん、とウインクをされ、僕は軽く身震いしながら一礼した。そして重い防音扉を開き、ホールの中へ滑り込む。
見上げるように高い天井に、びっしりと埋まった観客席。すでに客席側の照明は落とされ、ステージの上にはオーケストラのメンバーが既にスタンバイしている。
そして龍之介氏も、すでにピアノの前に着席していた。
「作曲家らしさ」を求めて伸ばしていた髪を、貴親の意向ですっきりと短く切った龍之介氏は、以前よりもぐっと若々しく見える。
オーケストラの男性は皆黒のタキシード、女性たちは黒いドレスに身を包み、なんともいえず厳かな雰囲気だ。
こうしてコンサートを観るのは、実は初めてだ。慣れない空気感を肌で感じて、僕はじんわりと緊張していた。
ここへくるまで、バタバタと生活を整えるための時間はとても忙 しかった。由季央は由季央で打ち合わせや練習でほとんど家におらず、すれ違いがちな新生活を送っていたものである。
だが二か月前、ようやく訪れた僕のまともな発情期の間は、由季央は片時も離れず僕のそばにいてくれた。
抑制剤を飲むこともない、初めてのまともなヒート。それはとても不安で恐ろしくもあったけれど、由季央がそばにいてくれると安心できた。
熱を燻らせた身体を優しく愛された。
手のひらで、指先で、唇で、舌で……由季央に触れられたところからとろとろと溶けていってしまいそうなほどに気持ちが良くて、僕は絶頂しながら幾度となく泣いていたらしい。
熱に浮かされながらの甘く激しいセックスに酔いしれていた間の記憶は曖昧だが、ただただ甘美で素晴らしい時間を過ごしたことだけは記憶している。
引っ越したばかりで、片付けも済んでいない僕らの家で。時も場所も選ばずに繋がり合い、飽きることもなくキスをして、セックスをして——……
——はっ……いかんいかん……こんなところで僕は何を……っ
フッと客席が暗転したことで、僕はようやく我に返った。一瞬の静寂の後、ホールを揺るがすほどの盛大な拍手が鳴り響く。
より明るさを増したステージの上に、颯爽と由季央が姿を現す。
その瞬間、聴衆から抑えきれないといわんばかりに黄色い悲鳴が上がり、綺麗に一礼する由季央に華やかな拍手が送られた。
既にスタンバイしていた龍之介が立ち上がり、両手を広げた。由季央と軽くハグをしたあと、今日の主役はうちの息子だと紹介するように誇らしげな笑顔を聴衆に向け、二人で揃って一礼する。
潮が引いてゆくように拍手が徐々に小さくなり、そして消えた。ぴんと張った緊張感が漂う静寂の中、ヴァイオリンを構えた由季央の視線が、ふと僕を捉えたような気がした。
真っ暗な客席の最後尾にいる僕の姿など、スポットライトの当たったステージから見えるはずはないだろう。だが不思議と、由季央としっかり視線が重なっている感覚がある。
「……がんばれ。かっこいいぞ」
僕は小さくそう呟き、胸の前で拳をぎゅっと固めた。すると、由季央の唇に笑みが浮かぶ。
そして、指揮者と奏者たちが目配せをして頷きを見せたあと——……
またたく間に、世界が華やかな音の世界に包まれた。
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