30 / 110

第30話

 先生はぎこちなく話を逸らした。俺と先生の羽織ものと荷物はコインロッカーに入れてきた。なので俺は今、白いシャツにジーンズ。秋と言っても今日は天気がよく暖かい。そんなに寒いと感じることはない。 「箱根は寒いんだぞ? 私だってセーターでちょうどいいくらいだ。寒くないのか」 「いや? 俺はこれで十分だけど。アンダーも着てるし」 「……若いんだな」  先生はしみじみ言って自分の細く白い足を見つめた。周りはやはり、というかカップルや家族連れが多い。俺は後ろ手をついている先生の手に自分の手を重ねた。びくんと先生の足が跳ねた。 「……藤田」 「見えてない。いいじゃん」  先生は遠い山の方を見つめた。さっきとはまったく違う、ぼんやりとした何かを考えるような目で、俺はそれが心配で饒舌になる。 「楽しかった?」 「……まだ他にも見るんだろう?」 「ピカソの美術館もあるんだって」 「一緒に見ようか」 「うん。裕貴さん」 「何?」 「楽しめてる? 気晴らし、できてる?」  先生は「気を遣い過ぎ」と言って俺の肩に頬を一瞬当てた。 「楽しいよ。こんなふうにのんびりするのは何年ぶりかな……」 「旅行とか、行かないの?」 「行かない。行くとしても一人。そうだね、こうして一緒に出掛けるのは藤田が初めてかな」  また俺を嬉しがらせて。男にとって好きな人の「初めて」は特別な気がする。何だか唇が緩んでしまう。 「こんなふうに二人で一緒にいて……ゆっくりして……両思いで。……幸せすぎて、怖くなる」  先生の真剣な視線に俺は少し戸惑う。率直な言葉でとても嬉しいはずなのに、どこか哀しげで俺は不安になる。でも、いいに決まっている。それだけは伝えておかないと。そう思った。 「いいに決まってるじゃん。裕貴さん、こういうの、なかったの? 本当に?」 「……なかったね」 「……身体だけだったの?」 「……一人の方が気楽だったから。でもこうして一緒に出掛けてみて……。デートって面倒で大変で疲れる」 「裕貴さん」 「けど……。嬉しくて、楽しくて、はしゃいでる。そんなふうに見えないかもしれないけど。今が一番幸せだと思う」

ともだちにシェアしよう!