72 / 110
第72話
少し先生の顔に戻り始めている。俺はすぐ行くから、と何度も繰り返した。そして、深沢さんの同席は困る、と言おうとすると先生はすぐに答えた。
『深沢さんは今から帰ると言ってくれてる。……君に甘えてしまうけれど……来てくれるのを……待ってる』
うちからたいして遠くない場所に先生の住むマンションはあった。バスケ部の俺なら、走っていけば大丈夫。俺は慌てて着替えて、財布とスマホをジャケットに突っ込み、リビングにいる母親に「ちょっと出掛けてくる」と言って家を出た。
先生の住んでいる部屋の前に立っていると、しばらくして静かにドアが開いた。そこから先生の顔が覗く。目が真っ赤になっていて、噛みしめたのか唇が鬱血している。そこまで泣いたのか。そこまで泣かせたのかと思うと胸が痛かった。
「……裕貴さん」
「どうぞ。……深沢さんは、もういないから」
先生はすでにパジャマ姿になっていて、肩にカーディガンを掛けていた。相変わらず肩が頼りなく見える。髪が少し乱れていて、顔色が悪い。俺は先生の後に続いて部屋に上がらせてもらう。初めての先生の部屋。ついあちこちに視線が行ってしまう。あまり物がなくて、さっぱりとしている。モノトーンを基調にした部屋は少し冷たく見える。先生がそんな俺を見て笑った。
「何? そんなに面白い?」
「いや、裕貴さんの性格そのままの部屋だな、って思って」
「見る? って言っても、このリビングと寝室しかないけど」
俺は首を振って、先生の細い手首を引いて、テレビに向けて置いてある黒いソファに勝手に座らせてもらう。隣りに座った先生は俯いたまま、時々鼻を啜っている。
「……そんなに苦しかった?」
「……ごめんね」
なぜか先生は謝って、思い切ったように顔を上げ、視線を俺に向けた。
「君を見掛けたのは……赴任してきてすぐ。昨年の四月のことだった」
先生はその時のことを思い出すと目が輝いた。
ともだちにシェアしよう!