74 / 110
第74話
裏切り。それは自衛。何とも言えず、俺達の間には長い、深い沈黙が訪れた。何と言えばいいのか、正直わからなかった。俺はなるべく平静に、どうしても聞きたかったことを口にした。
「その……傷のことだけど。……聞いてもいい?」
「……小学校三年の時だった。父が風邪で体調が悪くてね。でも日曜に遊園地に行こうと約束していた。私は我儘を言って、父と母と三人で楽しい時間を過ごした。けれど、その帰りに……。父は本当に疲れていたんだと思う。高速を走っていた時に止まった前のトラックに突っ込んでしまったんだ」
先生は思い出すのも忌まわしいと見える。自分の髪の生え際をぎゅっと握りしめて、まるで自傷のように思えた。
「父と母は即死……。私は、二人を見たけど、血だらけで……ほとんど何も覚えていない。私も一時、重体になってね。何とか助かったけど、壊れた車やガラスの欠片で身体中傷だらけになった。よく見て。顔だけは美容整形で治してもらったけれど。……私は自分を責めた。自分が我儘を言わなければ、父と母は死ななかったのだと。ずっと。私はその後親戚の家を転々としてね。初体験は年上の大学生の従弟とだった。痛くて痛くて……でも不思議と辛さが薄れたんだ、その時だけは。それから自分からセックスをねだるようになっていった。大きくなってからもそう。そうやって、私は生徒に数学という美しいものを教え始めた。不完全な身体のまま。不健全な心のまま」
「……裕貴」
「大きくなるたび、傷は広がっていく。……気が狂いそうだった。君と出会って……君という光が……私をいつもなんとかこの世に繋ぎ止めてくれた。なのにその君を裏切って、……本当に……」
俺は知らぬ間に先生を傷付けていたんだ。先生が俺に近付けば近付くほど、自分の影の濃さに傷ついてどんどんと自傷に走っている。そう、先生はその痛みで両親への負い目を軽くしているんだ。その結果がこれか。俺が無理に付き合わなければ、先生は痛みを感じずに済んだのか。いや、それは違う。俺はそれではいけないと思う。もっと早くに先生に訳を聞いて、楽にさせてやらなくてはならなかった。それが恋人の俺の役目だったのに。
ともだちにシェアしよう!