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第93話
桜の舞い散る中、先生はたくさんの女生徒に囲まれて、嬉しそうに微笑んでいる。自分が教えた生徒たちが巣立っていくのを心から喜んでいるのだろう。握手したり、写真を一緒に撮ったりと大忙しだ。俺はその様子を遠くから見つめていた。またもうひとつの別れが来た。もう簡単に会うこともできない。
「……声、掛けなくていいの?」
「多分……先生は俺の行く先を知っているから」
巧が卒業証書を入れた黒い筒で肩を叩きながら、俺に声を掛けてきた。
「巧、ありがとな」
「え? 何? 急に」
「おまえにたくさん助けてもらった。……感謝してる」
「残念ながら? またおまえとは同じ大学で同じ部になることになりましたから、……そんなことを言われても実感が」
俺は一般入試で、巧はスポーツ推薦で同じ大学に行き、また一緒にバスケをすることになる。先生との賭けがあったことで俺は勉強に目覚めて、何とか第一志望の大学に行くことができた。本当は心理学を専攻したかったが、結局、俺の中心はバスケになるだろうから、あまり授業に出られることもなくなるかもしれない。それも加味して、少しだけでも勉強してみたかった経済学部に落ち着いた。
「帰ろうか」
「マジでいいの? ……このままだと本当に最後になるかもしれないよ? ……後悔はナシで」
巧に背を押されて、俺は思わず先生の方に歩いていった。先生もこちらが気になっていたようで、他の生徒に手を上げるとすぐにこちらにやってきた。桜の花の下、スーツ姿で決まってる先生は綺麗だ。初めて見た時と同じように綺麗だ。その服の下の傷も心も、俺は愛してる。ずっと愛してる。先生は手を差し出した。
「藤田。卒業、おめでとう」
「……ありがとう、野村先生」
「うん。いい大学に行くんだ。勉強もバスケも」
「先生」
俺は学ランの一番上のボタンを外す。首に手を掛けるとそっと皮のネックレスの一部を見せた。先生は思わず、というふうに涙ぐんだ。そして、自分のスーツの上着のポケットから何かを覗かせた。
箱根で、二人で一生懸命作った。慣れない手つきで互いのためのアクセサリーを一緒に。桜のとんぼ玉が少し見えた。抱き締めたかった。そのまま連れていってしまいたかった。こんな美しい人が、俺を覚えていてくれるかどうか不安だった。
すべてが終わりになるわけではない。終わりにするつもりもない。俺にはこれからが始まりだ。先生には伝えないけれど、先生にとっては今、この時は何なのだろう。俺と同じ気持ちでいてくれたら。俺は平静を装った。
「自分を大事に」
「藤田」
「俺はあなたを忘れない」
「……私も」
「裕貴」
「……遼一」
「ここで一回、バイバイ」
別れの握手はしなかった。俺はそのまま門の外へと走り出る。追い掛けてきた巧が何も言わず、俺の頭を乱暴に叩いた。
「泣くな。先生は泣けないんだぞ」
「巧、今だけ。マジで泣かせて」
俺は泣いた。卒業式で泣いたことなど今まで一度もなかった。ただ、愛する人との区切りの別れに、涙が枯れることはなかった。
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