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第95話

 美幸の鼻が少し赤くなってきた。あ、これはあまり引き止めると泣くな。俺はカレーをいただくことにしてテーブルに向かった。 「……遼一。アンタ、ここで誰かと一緒に住むの?」  いきなり不意を突かれて、俺は返事に困った。買ったわけではないが2LDKと一人にしては大きな部屋を借りた。普段、部屋にいることが少ないのに、こんなに大きな間取りだから姉は気になるのだろう。 「何で」 「……大学時代もそうだし、まぁ、本当にバスケで忙しかったけど、あんまりアンタ、誰かとお付き合いすることとかなかったよね。……たまに外泊することはあっても、家に誰かを連れて来たりすることもなかった」  外泊の一人は百合さんとだ。百合さんとは相変わらず同志のような関係が続いていて、今でもたまに会ったりする。眼帯は今もずっと付けたまま、深沢さんとは相変わらずで、店に行けば毒舌合戦を繰り返しているし、何の進展もない。深沢さんは相当辛抱強い人だ。百合さんも諦めかけていて、深沢さんの店から独立を考えるようになり、二人で込み入った話もする。時々、百合さんは「帰りたくない」と駄々をこねて、外で泊まってしまったりする。一緒に寝たりもする。本当に、ただ一緒に眠るだけ。たまにいたずらにキスをしたりはする。百合さんも俺もあまりに清い関係で笑ってしまうくらいだけれど、大事な人になっていた。  女性と付き合っていないわけではない。付き合ってはみたものの、やはり先生のことが脳裏を過った。当たり前のことに納得しただけで、結局、俺は先生のことしか考えられなかった。それが身に染みただけ。それにバスケの方が忙しくなかなか普通の恋人同士のようにどこかに出掛けたりということができない。会えば練習後の夜が多く、当然外泊が自然な流れになり、そうなれば身体の関係だけが進んでいるようになってしまう。自然消滅が多い、そういうことだ。 「することはしてましたよ」 「あら。それならいいんだけど。本当に好きな人がいるなら、大事にしなさいよ」 「美幸にそれを言われるとは」 「バスケも大事。仕事も大事。でも、愛する人もそれ以上に大切よ」 「……ありがとう」  その通りだよ、姉さん。俺はここまでよくやってきたと、自分でも少し自分を褒めたいくらいだよ。一人よがりと思われるかもしれないが、ここまで必死にやってきた。  先生と別れてから七年の月日が流れた。その間に転勤になったと聞いたが詳しくは聞いていない。深沢さんとは連絡を取っているようだが、そのことについて彼はあまり教えてくれない。まったく会っていないかというとそうでもないようだ。だがそのことを責めるつもりは、まったくない。 大学時代、今の実業団に入ってからも時々、先生の姿を観客席の中に見る。何とか故障せずにやってこられたのは試合に出続けていれば先生が観に来てくれる、と思えるから。大学でも結局バスケ一筋となり、さまざまな試合に出ている間にいくつかの実業団からスカウトがあった。俺はありがたくそのお話をいただいて、今では一軍で活躍できるトッププレイヤーになった。だが野球やサッカーというものより世間の注目度は低いようで、大々的にテレビ放映されることもあまりない。バスケの専門誌に載るくらい。つまりひとつの心配は消えた。先生に迷惑を掛けるということ。 「じゃ寝るわね。私、早いから見送りはいいよ」 「わかった。……幸せにな」 「遼一もね」  美幸は手を振って寝室の中に消えていった。幸せに、か。俺は覚めないうちにカレーに手を付ける。

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