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第97話

 翌日の夜。店に入ると相変わらず二人が言い合っている。俺は気にせずカウンターに座り、百合さんに手を振る。深沢さんに文句を言いながらも百合さんは俺の方を向いて軽い飲み物を作ってくれている。深沢さんが疲れたように煙草に火を付けた。 「遼一の前で吸わないでよ」 「何、そのルール。藤田くん、相変わらずの活躍、喜ばしいね」 「ありがとうございます」  深沢さんはにっこりと笑った。目尻に皺を刻むようになって、七年という月日の長さを物語る。百合さんは少し大人びて、それでもよく見ても大学生だ。心理学を専攻して、百合さんはますますそれから離れるようになった。俺はてっきり心理カウンセラーになるとばかり思っていたが、人の悩みを聞いていると「イライラする」のだそうだ。いつもの百合さんはその冷たい容貌の通り、すっぱり物事を切り捨てる方だし、人の事になどあまり興味がない。深沢さんのことも最近何とか吹っ切れてきたようで、前ほど俺の腕の中で泣く回数も減っていた。結局深沢さんの店からの独立を考えているようだけれども、店を持つようになれば人の愚痴やら悩みなど聞くこともあるようになるだろう。だから深沢さんの横で静かに店の仕事に専念できる今が一番いいのかもしれない。 ある時、百合さんの呼び出しを受けて、俺は出向いた。すぐに深沢さんが外泊をしているのだろうとわかった。百合さんは俺の前で続けて何杯もグラスを重ねた。見かねて手を取ると百合さんが泣いた。深沢さんにどんなことをされても、結局、百合さんは彼のことを諦め切れないのだろう。深沢さんの想いもわかるだけに、俺は何も言えなかった。二人はいつまでも平行線のまま、歩いて行かなければならない。それを噛み締める度に、百合さんは泣く。そしてそれを見るのは俺、ということが多くなっていった。あまりにかわいそうで、俺は彼と一緒に外泊することにした。百合さんは俺にしがみついているだけで言葉を交わすことはなかった。俺達の夜は概ね、そんな調子だった。百合さんの気持ちが少しはわかる。どんなに想っても結ばれない人が側にいる辛さ。それは簡単に昇華することのできないものだ。迷っていた俺を助けてくれたように、といって俺が何かできるわけでもなかったが、ただ側にいて、抱きしめていた。そんなように過ごしたいつもの朝。カーテンを開け放したままの室内は明るく、百合さんの顔に日が当たらないよう、俺はもう少し彼を抱き寄せた。彼は眠る時も眼帯を取ることはない。俺の前で眼帯を取ったことは一度もなかった。彼と付き合っていく中で俺はそれがとても気になっていた。もしかして先生のように傷があるのかもしれない。もしそれを尋ねたら彼の気分を害することにならないか。だが、俺は百合さんのことをもっと知りたかった。しばらくして目覚めた彼に、俺は眼帯のことを思い切って聞いてみた。どうしても踏み込めない先生の闇のように、その眼帯はいつもそこにあったから。百合さんはそっと起き上がると一呼吸置いて、その眼帯を取り、ゆっくりと瞼を開けた。

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