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第98話

「百合さん」  朝の光の中、その瞳はきらめいて美しかった。ひとつだけ違うのは、両目の色が違ったこと。左目は黒、右目は明るい茶色。 「……驚かないんだね」  百合さんは少しほっとしたように肩の力を抜く。同じベッドの上で、俺達は静かに見つめ合った。 「両目の色が違うでしょ。ヘテロクロミアっていうの。虹彩異色症ってヤツ」  ふと視線を落として、百合さんは手の眼帯を弄びながら、続ける。 「裕貴さんの気持ち、少しはわかるんだよね。僕、これが原因で人から変な目で見られることが多くてね。それで眼帯して隠してたの、ずっと。でも、賢史だけは驚かないでくれた。当たり前のように、僕を見てくれたんだよね。遼一が悪いって言ってるんじゃないよ、そこは誤解しないで。人と違うってこと、傷つくこともあるんだよ」 「百合さん……」 「驚かないでくれて、嬉しかった。遼一は、きっと裕貴さんと一緒に生きていける。そう思う。だから必ずまた会えるって信じて。僕も信じてる」  百合さんはそう言ってくれた。 「はい、マルガリータ」 「随分とオーソドックスだな」 「遼一が好きだから。ね?」  俺は二人に笑い掛けた。グラスの縁に散りばめられた塩をそっと舌でなぞると、そのまま乳白色のカクテルを一口飲んだ。 「亡くなった恋人を偲んで作られた、というね」 「ガールフレンドのためにって説もあるよ。遼一に嫌がらせしないで」 二人の険悪な雰囲気を何とか崩そうと、俺はせいいっぱい笑顔を作った。 「おいしい。百合さんのカクテルは本当においしいですね」 「遼一、俺のはまずいって言うのか」 「違いますよ。同じものでも深沢さんのはいい意味で重い感じで」 「じゃ僕のは軽いって言うの?」 「百合さん」  どうやら最高潮に仲の悪い時に来てしまったようだ。互いに言葉尻を捉えて、俺は参ってしまう。 「裕貴の連絡先が知りたいか」  紫煙を吐き出して、深沢さんは俺に微笑んだ。俺はしばらくして、頷いた。今日はそのために来たのだ。二、三日の休みの後、俺はまた遠征に出なければならない。その前にどうしても先生と会っておきたかった。 「裕貴は三十五になった。違う高校で数学を教えていて、今、付き合っている女性がいる」 「……賢史!」  息が止まるかと思った。なぜだろう。先生は俺のことだけを考えていてくれていると思っていた。勝手なことをして、勝手な思い上がりをして。そうか。今は幸せなのか。ただ元先生として、純粋に教え子の試合を見に来てくれているだけだったのか。俺はグラスを置いて、膝に両手を置く。握りしめた手が痛い。その時だった。 「……痛っ……」 「百合?」 「……大丈夫」 「目が痛むんだろう?」  深沢さんは煙草を置いて、百合さんの両肩を抱いたが、嫌がって身体を振った。バランスを崩して倒れそうになる。それをしっかりと抱きとめて、眼帯に触れた。その瞬間、それが落ちる。俺に秘密を打ち明けたのに、百合さんは急いで手を目に当てて、深沢さんの胸に顔を埋める。 「眼帯、取って」   「百合、病院に」 「大丈夫! ……大丈夫だから」  伸ばした手で拾った眼帯を渡すと百合さんは急いで耳に掛ける。そして何事もなかったかのように俺に微笑み掛けた。 「大丈夫ですか? 百合さん」 「ごめん、大丈夫。もう何ともない」  深沢さんから離れて百合さんは洗い物を始める。それを心配そうに見つめる深沢さんの目は、とても弟を見るものではなかった。深沢さんは今も百合さんのことを愛しているんだ。それでも百合さんのために必死に自分の心を押し殺している。俺は? 先生が幸せなら、もう自分の気持ちは抑えた方がいいのではないか。そう思えてきた。 「……遼一」 「何ですか?」  百合さんはグラスを洗いながら、ぽつりと言った。 「……遼一はやることをやったんだ。……気持ちを抑えることはない。ここまで頑張ったんだろう? 言いたいこと、言ってきなよ」 「百合さん……」 「ダメなら、……僕が……」 「それなら俺が送ってく。百合、店を任せてもいいな」  百合さんの声が掻き消えて、その後が聞こえなかった。深沢さんは急いで店の近くにある駐車場に来るように俺に言う。百合さんが優しく頷いた。俺も頷き返して、店を後にした。

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