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第99話
深沢さんは車の前で電話をしていた。手で助手席に乗れと指示してくる。俺はドアを開けて中に乗り込んだ。しばらくして深沢さんがドアを開けた。
「裕貴も会いたいと言っている。いいな?」
「……はい」
先生に会える。七年ぶりに会える。俺はくたくたになった皮のネックレスのとんぼ玉をポケットの中で握りしめる。スーツ姿の俺。先生はどう思うだろう。両手を握りしめていると車は静かに駐車場を出た。
「百合は俺が守る」
「……はい?」
いきなり何の話だろう。俺は深沢さんの厳しい横顔を見た。
「百合は……右目が見えなくなるかもしれない」
びっくりして俺は息を飲んだ。そんな。百合さんの目はそんなに悪くなっていたのか。俺と一緒の時は痛みを訴えたことが一度もない。隠していたのか? 百合さんの辛抱強さも並ではない。
「百合は、ああ見えて人の心に敏感だ。気持ちの揺れで目が痛むらしい」
「そんなことが……?」
「本人がそう言っている。実際、病院でも何が原因かわからないそうだ。ただ視力は年々低下している。今はもうぼんやりとしか見えないらしい」
百合さん。まだ深沢さんのことを深く深く想っているのか。俺と一緒にいて笑って、もう気にしないと言いながら、心の底から苦しんでいて、そこから抜け出すことは不可能なのか。俺は百合さんの辛さをわかってやれなかった。何もしてやれなかった。近くにいたのに。
「何もしてやれなかったとか考えなくていい。おまえには関係のないことだからな」
「俺にも関係があります。百合さんとは」
「百合と寝てるんだろう? 今度こそ本当に」
また。深沢さんは聡い人だが、百合さんのことになると先走りすることがある。そんなことがあるわけないだろう。それとも俺と一緒にいるのが気に入らないのか。
「……嫉妬ですか」
「ああ、そうだ。百合は誰にも靡かない。大学でも友人はいなかった。俺だけだったんだ。なのに、おまえとはよくつるんで……一緒に外泊してるのは、おまえだろう」
「それはそうですけど」
先生と深沢さんの話しかしていない。たまに互いの近況を報告するだけで深沢さんの思っているような関係ではない。それをどううまく説明したらいいのか、俺は頭の中で整理していた。深沢さんは少し怒っているようで、運転が乱暴になっていた。
「……百合の右目のことも、知ってるんだろう?」
「そんなに心配なら、あなたが掴まえてあげてください。先生だけの俺に百合さんを頼もうとしたこともあるのに、今更何なんですか。百合さんだってあなただけなのに」
「俺は百合の思うようにしようと思う」
それは、百合さんと兄弟としての一線を超えるということ? 百合さんの思い通りになるということ? 深沢さんは苦い表情で、前の車を煽った。
「あの子のためを思ってしてきたことが、すべて裏目に出た。畜生」
「深沢さん……」
「おまえはもう裕貴のことだけ考えろ。百合に手を出したらただじゃ済まない」
「……八つ当たりですよ」
「俺も裕貴からは完全に手を引く」
「……願ったり叶ったりです」
そんなことを言って。存外優しい深沢さんは先生に求められれば断れない。そういう人だということはわかっているし、今はそのことに感謝している。
車は埼玉方面に向かっているようだった。
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