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第3話

初めてのセックスは痛かった思い出しかない。 ――これ、兄貴から貰ったんだ。 季節は高校の冬。放課後、友達の家に遊びに行って、炬燵に入ってゲームをしていた時だった。 お茶を取りに行ったはずの友人が手にしていたのは、ローションだった。 初めて見るそれに戸惑う真翔に、友人は重ねて爆弾を放った。 ――お前、俺のこと好きだろ? 疑問形なのに、なぜか確信を持っていると分かる問いかけ。 昔から女の子よりも男に視線を奪われがちだった自分を意識するようになった頃だった。そして、友人の言う通り彼に秘かに片思いをしていた真翔は、なんでバレたのかと大いに焦った。 否定も肯定もできずにいる真翔を見て、彼はにっと笑った。 ――試してみない?  そう言われて、何のことか分からないほど性に無関心ではなく、真翔は小さく頷いた。  だけど、それから一時間もしないうちに、ああ、なんだ。こんなものか、と思った。  好きな人とのセックスって、もっと夢みたいなことだと思っていた。でも、実際はただただ痛みに耐えて、相手と肌を重ねるだけ。  それは、昨日別れた彼女とのセックスでも似たようなものだった。相手がいる分、煩わしさすら感じてしまい、最近では極力そういう雰囲気にならないように避けていた部分がある。  だから、セックスに関して期待をしなくなったのは、単に男同士で後ろを使ったから、というわけではない。  今でも、あの時の、高校の頃の自分を思い出すとその幼稚さが恥ずかしくなる。  友人だった彼とは付き合っていた、と思う。思っていた。  初めての日から何度か求められて身体を繋げて、関係ははっきりしないままでいた。聞いて関係が崩れるのが怖かったのと、自身の流されやすさが原因だと思う。  今思えば、相手が真翔と付き合っているつもりがあったのかどうかは怪しい。  高校卒業を間近に控えた、ある日。乾燥した風が冷たいのに、日差しの暖かな日だった。  ――えっ……。  掃除当番でゴミ箱を手に、渡り廊下を歩いていた真翔は目を疑った。何しろ、恋人であるはずの彼が、同じクラスの女子の肩を抱いて反対側から歩いてきたのだから。  ――村瀬。俺、彼女できたから。  真翔に気づいた彼は、一瞬だけ気まずそうに目を逸らした気がしたけれど、すぐにいつもの笑顔を浮かべていた。その時、ああ、この笑顔が好きだった、と思ったのをいまだによく覚えている。  ――彼女……。  ――おいおい、友達に彼女ができたんだから祝えよなー。  音が遠のいていく真翔の胸に拳を軽く当てて、恋人だったはずの彼はわざとらしく茶化した。  ――トモくん、まだあ? パンケーキ屋さん混んじゃうよ?  ――ああ、うん。じゃあな、村瀬。お前も遊びはやめて、普通に彼女作れよ?  腕を組んで歩いていく二人の後ろ姿が滲んで見えて、その時やっと自分が泣いているのだと気づいた。  そして、自分が『普通』じゃないことをしていたことを。  こんな青臭いことを思い出したのは、間違いなく佐野のせいだ。  翌朝、目が覚めた真翔は一人、ベッドの中で頭を抱えた。妙な腰のだるさと足のつけ根の痛みが、昨夜の行為が夢などではなく現実であることを告げている。 佐野はホテルの部屋にはもういなかった。  チェックアウトをすると、ホテルの宿泊費は支払われていて、ひどく惨めな気持ちになる。  一人暮らしのマンションに帰ってすぐ、熱いシャワーを頭から浴びて、全身を洗った。  本当だったら、このまま何も考えずにベッドに倒れたいところだけど、平日の中日の水曜日。会社に行かなければならない。  ベッドに脱ぎ捨てたスーツをハンガーにかけていると、ポケットからカサっと乾いた音がする。中からは一枚のメモが出てきた。覚えのないそれを開くと、見知らぬ電話番号が書かれていて、なんだっけと思う。だけど、その下に書かれた『連絡して』という文章を見てやっと思い当たった。自分の流されやすさは嫌というほどに痛感しているけれど、連絡する気はない。ので、手にしたメモを丸めてゴミ箱へ突っ込んだ。  そしてさっきまで着ていたものとは別のスーツに袖を通して、真翔は慌ただしく家を出た。  会社には、いつもよりも出社が遅くなったものの遅刻はせずに済んだ自分を褒めたい。 挨拶をしながらパーティションで仕切られた机の中の手前にある自席に着くと、周りはもう仕事を始めている人間が多い。真翔もパソコンを立ち上げてすぐにメーラーを開き、気を抜くと昨日のことを思い出してしまう頭を必死で仕事モードに切り替える。 「あのー、村瀬さん」 「はい」  顔を上げ、男性社員の顔を見た真翔はまずい、と思う。見覚えはあるけど、名前と部署名を覚えていない。 「昨日お願いしていたドメインの登録って、もう終わってますか?」 「あ、はい。昨日のうちに登録できているので、もう使えますよ。新しい方、今日からでしたよね」 「ありがとうございます! 急にお願いしてしまってすいませんでした」  頭を下げる姿を見て、はっと思い出した。そうだ、商品開発課の―― 「何か不具合などあったら、お手数ですがご連絡ください、園崎さん」  社内システムエンジニアは、他部署とのやり取りが特段多い。理由は、パソコンやシステム、サーバー環境などの問い合わせを受けているから。それ以外にも、会社のホームページや社内で使うシステムの開発や改修作業があり、業務内容は幅広かったりする。  そんな部署にいながら、真翔は人の顔を覚えるのが苦手だ。気づいたのは、仕事を始めるようになってから、すぐのことだった。 「あの、村瀬さん? 僕の顔に何かついてます?」 「え?」 「あ、違いました? なんかじっと見られてたので」 「あ、すいません。癖でつい……」  相手を見送ってから、デスクの引き出しから一冊のノートを取り出し、目当てのページを開く。『商品開発課 園崎』と書かれた下に、『顎にほくろ』と追記してすぐに閉じた。  関わった人の名前と顔の特徴をメモするようになったのは、いつからだっただろう。周りの同僚たちは難なくこなす当たり前のことができないのだと気づいた時にはもう、ノートを手にしていた気がする。 分厚いノートを見返すことはしょっちゅうで、名前を聞いてすぐに顔が出てこない時などはこっそりと覗いている。いつでも見れるようにしていて、真翔にとってはもはやお守りに近い。  人の顔のことを考えていたせいか、思い出したくないのに昨日会った佐野の顔が頭に浮かんだ。出来事が強烈すぎたからなのか、ある程度同じ時間を共に過ごしたからなのか、真翔にしては珍しくしっかりと覚えている。やっぱり、酒のせいで忘れるなんて都市伝説だ。  余計なことを考えてしまいそうになる頭を切り替えて、パソコンのモニターに集中していると、再び「村瀬さん」と声をかけられた。  今度はノートを見るまでもない。声の方を見れば同じ部署の後輩――小柳が立っていた。男が多い真翔の部署の中では数少ない女性社員だ。 「あの、開発画面の相談をしてもいいですか? エラー処理のコードがうまくいかなくて」 「ああ、あそこ処理が多いよな。メール一本送ったら行くから、先に席で待ってて」 「ありがとうございますっ」  さて、とモニターに向かおうとしたら、今度は隣から「村瀬―」と声をかけられた。 「なに?」  相手に向き合わず、モニターに目を向けたままメールの文章を打ちながら聞く。 「ちょっと! 小柳さんと俺でだいぶ差がない?」 「聞いてたならわかるだろ。先約があるんだよ」 「っていうか、村瀬って女の子には優しいよな」 「別にそんなつもりは……」 「まあ、いいけどさ。今日、昼飯一緒に行かね?」 内心で懲りないなと思いつつ、真翔は笑顔を浮かべる。 「悪い。今日は作業が詰まってて、終わらせてから出ようと思ってるから」 「手伝おうか?」 「いや、大丈夫」 笑顔を深めて言うと、諏訪は真翔を見る。 「な、なに?」 「村瀬ってさ、そういうとこあるよなぁ」 「え?」 「それだよ、それ」  自分の顔を指で示して、諏訪自身もにっと笑った。 「ま、別にいいけどさ。また誘うわ」  真翔の肩を軽く叩くと、足取りまでも軽く静脈認証が設置されているドアの方へと向かって行った。  正直、あの同僚があまり得意ではない。人のことを見ていないようでしっかりと見ていて、真翔が必死になっていることのすべてを見透かされているんじゃないかと思う時がある。今だって、たぶん断り文句だと分かっていて、真翔の癖を指摘したのだろう。 それでも、なんだかんだ同僚としての関係が良好でいられるのもまた、諏訪のおかげである部分が大きいのだということも分かっている。結局、今もうまく流してくれたのだ。 俺もあんなふうだったらな……。 プロジェクトルームを出ていくまで諏訪の背中を見送ってしまってから、はっとした。自分と他人を比べたってなんの意味もないのに。だけどどうしようもなく思ってしまう。もっと『普通』になりたい。 時間をずらして適当に昼食を取って会社へと戻ると、電話対応していた諏訪が真翔を見て「あ、戻ってきました」と言った。 え、俺? なにか急ぎの案件が入っていたかと慌てて記憶をさらっている間に、諏訪は電話を切った。 「営業一課からご指名」  なんだ、俺じゃないじゃん、と内心ほっとする。 「いってらっしゃい」  問い合わせは受けた人間が担当するのが基本だ。そして、社内で使っているシステムについては大まかな担当が決まっている。真翔は在庫管理や経理の発注画面が担当で、営業が使うような企業間の契約情報周りなどを担当しているのは諏訪だ。 「いや、村瀬が呼ばれてる」 「え、なんで」 「あれ、問い合わせ受けてたんじゃないのか? なんか登録の時にエラーが出るって話みたいだったけど」  まったく覚えがない。それに話を聞くほど諏訪が適任に思えてくるが、呼ばれている身としてはそうも言っていられない。問い合わせ対応は迅速かつ正確に、が基本だ。 「行ってくる」  液晶ディスプレイからノートパソコンを取り外していると、「一応俺も行くよ」と諏訪が席を立った。  ビルの六階にあるプロジェクトルームを出て、四階まで降りて営業一課のあるフロアへと向かう。社内SE席とは違ってパーティションで区切られることもなく、開放的に区分されているフロアが広がり、ドアを入ってすぐに営業一課が集まる席――通称、一課シマが見える。担当外である上に営業からの問い合わせを受けることもあまりなくて、久しぶりだな、と思う。 「そういえば、電話の相手って誰だったの?」 「あー、あれ、社長賞だよ」 「社長賞?」  なにそのあだ名。と思ったその時。 「すいません、わざわざ来てもらって」  営業課のほうから聞こえた声に振り返って、真翔は硬直した。どうして、と思う。 そこには今朝、もう二度と見ることはないと思っていた顔があった。 「村瀬さん、どうも」  真翔に手を挙げる佐野を見て反応したのは、隣にいた諏訪だった。 「お前、いつの間に社長賞と知り合いになったんだ?」

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