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第6話

食事をしに行こうと言われ、会社の近くを勝手に想定していたので、まさか電車に乗って移動するとは思わなかった。  さらに、「うまいものが食える場所」と言われて案内されたのは、マンションの前だった。 嫌な予感がする。 「あのさ、ここって……」 「俺の家」 「帰る」 「待った待った」  まるで猫みたいに首根っこを掴まれ、振り払った。すると、佐野は両手を小さく挙げて見せる。 「大丈夫。なにもしません」  信用できるかっ!  気にせずに踵を返し、駅に戻るのに地図を出そうとスマートフォンを取り出す。すると、佐野が静かに切り出した。 「なあ。あの日の写真、あるんだけど」 「……は」  あの日。そう言われて自然と思い浮かぶ日なんて決まっている。バーで会って、ホテルにまで行ってしまったあの日、だ。そして、ここで言う写真というのがどういう内容のものかというのも、想像したくないけれど予想はつく。 「……今さら、そんなのが出てくるわけないでしょ」 「じゃあどうなってもいい?」  本当か嘘か分からない。ただ、もし本当にあったとして、佐野がうっかりネットに載せてしまったら……。デジタルタトゥーという言葉が頭をよぎる。  どう答えるべきかと考えていた時、「こんばんは」と声が降ってきて、真翔の肩をびくりと跳ねさせた。  相手はマンションの住人らしく、佐野も挨拶を返すと中へと入っていった。住宅街にあるマンションの前は、帰宅時間なこともあって人通りが少なくはない。佐野との会話の内容的にも、周りからどう見えるのかと気になった。 「本当になにもなしだからな」 「はいはい」 「……お邪魔します」 「どうぞ」 真翔の様子を観察するみたいに見ていた佐野はおかしそうに笑っていた。やっぱり嘘だったのかと、ほっとするよりも腹が立って佐野を睨んだけれど相手はどこ吹く風でにっこりと笑い返され、まったく効果がないのが悔しい。 エントランスに足を踏み入れて、今日こそはと思う。佐野にもう一度はっきりと断ろう。そう心に決めた。  エレベーターで五階まで上がった角部屋は、思った以上に生活感があった。 散らかっているわけではなく、しっかりと片づけはされているのだけど、よく使うらしい本やノートが机に出たままだったり、棚の横にインテリアみたいにハンディの掃除機が置かれていたりする。勝手な偏見だけど、モデルハウスみたいな部屋を想像していたので、意外だ。  特に、キッチンが充実している。真翔なんて料理はすべて電子レンジ任せで料理道具はフライパンすらないのに、佐野は慣れた様子で包丁で器用に野菜の皮を剥き、先に焼いていた肉と併せて炒めていく。  まったくなにができるのか想像ができない。だけど、漂ってくるいい香りにこんな状況にも関わらず、自然と空腹を覚えた。いやいや、ダメだって。  あっという間に作られたつまみと一緒に、佐野がビールとワインを持ってくる。 「アヒージョはこのクラッカーに塗ってどうぞ。あと、腹減ってるようだったら、豚肉と大根煮込んだのも食べて。米も炊いてあるし」 「なにか手伝うよ」 「じゃあ、グラスにビール注いでおいて」  佐野は手際よく料理を並べていき、真翔が言われた通りビールを注ぎ終える頃にはもうセッティングが済んでいた。 「じゃ、乾杯」  グラスを差し出され、真翔は「お疲れ様です」とグラスを合わせ、佐野宅での食事が始まった。 「うまい……」  近くにあって手を伸ばしたアヒージョが、ビールとよく合う。 「そうか? ならよかった」  ふと気づけば、佐野がこちらを見ていて、真翔の様子にほっとしたように息を吐き、自身も食べ始めた。食べるところをじっと見られていたと思うと、なんだか居心地の悪い気恥ずかしさがある。  そんなことを考えて、はっとした。なにをゆっくり食事しているんだ、俺は。佐野とちゃんと話さなきゃ。だけどそう思った矢先、「あのさ」と先に話を切り出されてしまった。 「俺が前から村瀬のこと知ってたって言ったら、驚く?」 「は……?」  前から? あの日、バーで会ったのがお互いの初対面ではなかったのか。そう信じて疑っていなかったので、正直驚いた。だからあの時、仕事の話をしたら反応が気まずそうだったのかと思い当たる。ただ、どうして今さらになってそんな打ち明け話をするのかが分からない。 「俺、時間があるとよく開発研究課に顔を出してるんだけど。あ、サボりじゃねえよ?」 「今日、東さんから研究職希望だったって聞いた」 「そうなのか? 東さん、お喋りだな」  そうは言いつつ佐野は笑っていて、親しみがこもっているのが分かる言い方だった。 「東さんっていえば、村瀬のこと褒めてたよ」 「え、なんで?」 「社内SEの中でも、他部署の人間の名前をよく覚えてくれてるってさ」 「そ、そう……」  そんなことを言われたのは初めてだった。普通ならごく当たり前にできることを褒められただけ。それなのに、すごく嬉しい。  すると、ふいに頭を撫でられた。 「ちょ、なに?」 「いや、なんか褒められた子供みたいな顔してるからさ」 「してないっ!」  優しく撫でられたところの感触ごと、わざと雑に払いのける。佐野は「村瀬は飽きないなぁ」と鷹揚に手を引いた。 「でも、俺は知ってたよ」 「なにを」 「村瀬が人の顔覚えるの苦手で、頑張ってメモ取ってることとか」 「はぁ?」  思わず腹の底から声が出た。別に隠していたことではない。だけどそれは周囲からは仕事のメモをしているように見えるだろうと思っていたからで、知られてもいいと開き直っていたわけではない。 「な、なんで……」 「さっき言ったでしょ。開発研究課に行ってたって。村瀬も一時期よく来てたじゃん」  言われて思い出すまでに時間がかかった。それも仕方ないと思う。いかにも最近みたいな口ぶりだが、佐野の言う『一時期』は一年近く前のことだ。  その頃、製品の開発に使うシミュレーション用のマシンを一新した開発研究課だったが、搭載されているOSが社内のものと違ったせいで社用のシステム全般が使えなくなり、しょっちゅう呼び出されていた。  合点はいったものの、それでも思い出せない。考え込んでいる間に、佐野は「そうだ」とおもむろに立ち上がり、キッチンへと向かった。 「よかったら、つまみに」  テーブルに出されたのは、皿の上に載った丸い粒のホワイトチョコレートの小さな山だった。 「……悪い」 「いいよ、別に。大勢の開発研究課の人間のひとりに紛れてたし、話したこともなかったんだから自然だろ? 逆の立場だったら俺も覚えてないと思うし」  さらりと言って、佐野は新しいグラスにワインを注ぎ、そのまま真翔に差し出した。 「……ありがとう」  受け取ったワインを口にして、チョコを一粒食べた。ただのホワイトチョコだと思っていたら、中になにか実が入っている。 「オリーブだよ」  真翔の反応を見ていた佐野に言われて、ああそうだこれオリーブだ、と分かる。変わった組み合わせだけど、甘くてほろ苦い味が癖になる。 「俺さ、今まで人のことを好きになるって分かんなかったんだ。好きなら相手のことが気になるものでしょ? って付き合ってた相手に何度か言われたことがあったんだけど、全然意味が分からなくて」  なにも言えなかった。佐野の気持ちも、その付き合っていたという相手の気持ちも真翔にはなぜか分かる。 四六時中、好きな人のことを考えてしまうことも、好きになろうとしてなれなかった元彼女たちに似た言葉をかけられたこともあるから。 「でもこの前、やっと分かったんだ。好きなら気になるって意味」  ダメだ、と思う。このまま聞いてしまっては。なのに、佐野の声にじっと耳を傾けてしまう。 「ずっと、村瀬のこと見てた。なんで人のことあんなにじっと見てるのかなって思ってたけど、あれって人の顔を覚えようとしてるんだろ?」 「なんで……」 「うん?」  なんでそんなに俺のこと分かるの?  言おうとした言葉はキスで塞がれた。 「……なにもしないんじゃなかったのかよ」 「なんだ、誘ってるのかと思った」 「男同士なのに」 「またそれ? なんでそんなにこだわるの?」 「だって変だろ」 「村瀬?」  声が震えるけれど、言葉を止めることができない。 「俺、ずっと変なんだよ。高校の時に付き合ってるって思ってたのが男だったことがあるんだ」 「『思ってた』? 付き合ってたんじゃないの?」 「俺の思い込みだったんだよ。何回かやったくらいで、付き合ったってことにはならない。今の俺と佐野と同じだ。こんなの、変なんだよ」 「そんな奴と一緒にするなよ」 佐野は真翔の両手を取った。 「村瀬は変だからって理由で、チョコとオリーブの組み合わせも否定するのか?」 「それとこれとは……」 「同じだよ」 「んっ……」  口にチョコを一粒含むと、真翔の頭を押さえて再び唇が重ねられた。 ころり、と口の中にチョコが転がりこんできた。それを追いかけるみたいに佐野の舌が入ってきて、すぐにチョコを溶かしてしまう。口の中にはホワイトチョコの味と、オリーブの実が残った。その実を佐野の舌が真翔の頬の内側に押しつぶしてくる。 「あっ」  オリーブの実を呑み込んでしまった。その隙を狙ったように、口づけが深くなる。  キスが解かれる頃には、真翔の息は上がっていた。なんだか頭がぼうっとする。酒のせいか、呑み込んだ実のせいか、それとも――。 「村瀬、勃ってる」 「わざわざ言うなよっ」  服の上からなぞられながら指摘された羞恥で佐野の手をはがしにかかるが、簡単に押さえ込まれて前をくつろげられる。 「村瀬も一緒に触って」 「あっ……!」  勃ち上がった真翔の中心に、向かいに座った佐野の中心が触れて一気に熱くなった気がした。そこに真翔の手も導かれて、一緒に擦り上げる。混ざり合った先走りでくちくちと鳴る水音を感じながら、ストロークがだんだんと早くなっていく。 「あっ、あっ、佐野……っ、いくっ」 「……っ、俺も」 「佐野っ……んっ」  名前を呼ぶと佐野はすぐに真翔の口にそれを重ねた。  本当に、どうして分かるのだろうか。だけど、そう思ったところで限界だった。 「あっ、あーっ……」  白濁を吐き出したのは、同時だった。 「村瀬……」  せわしなく息を吐く肩を、覆うように抱きしめられる。気づけば真翔はその背中にそっと腕を回していた。  こんなはずじゃなかったのに……。  まるで気持ちと身体がばらばらだ。そんな真翔の気持ちを知ってか知らずか、佐野はさっきと同じく頭を優しく撫でた。

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