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9.スラム街の闇医者と落ちてきた片翼の天使のお留守番②
「エル兄、エル兄……ぐすっ、いるんでしょ?」
夕刻頃になるとヤクモの言っていた通り、エルメールの予想した通り、鍵をかけた扉越しに子供達の声がした。エルメールは、ヤクモのいいつけを思う。『脅されて、言わされてるかも知れねーだろ』と。しかしちょっとヤクモが出かけただけだ。ヤクモだって態々目立つようには出かけない。奴隷市場の汚い売人共が、本当にそれを逐一心得ているとはエルメールには思えなかった。エルメールが料理をした、鍋からは焦げ臭い匂いが漂っている。声は続く。
「エル兄、痛い、痛いよぉ、たすけて……ヤクモ先生」
「!!」
『ヤクモ先生』と子供が呼んだ。やっぱり、子供達、ヤクモが出かけているのを知らないのだ。街で乱暴ものに酷い目に合わされたのかも知れない。怪我をして、逃げ込んできたのかも知れない。そう思った。だからあんなに言われたのに、ヤクモにあんなに言いつけられたのに、世間知らずのエルメールは、いとも容易く診療所の扉を、鍵を開けてはまずは数ミリ、そっと明けてしまったのだった。
バタッ、ガンッッ!!
「へっ?」
数ミリ開いた隙間から、子供達の様子を伺おうとしたエルメールの手が、ドアノブを持ったまま外側に思いっきりに引っ張られ、ドアが全開になったと思った瞬間。子供の酷い泣き顔がエルメールの青い目に映った次の瞬間。エルメールの脳天に、鈍く重い衝撃が走った。
「なっ……、」
ぐらり。目の前が揺れる。揺れる視界の中でエルメールは、泣き顔の子供達を道の横に蹴り飛ばす、薄汚い大柄の男達をぼんやりと捕らえた。(ああ、売人、)と遠のく意識で考えながら、それよりも子供達が大丈夫かと、怪我はしていないかと、聞いてみたくて手を伸ばして、しかしエルメールのその手は売人の男に掴まれて、そのまま診療室に無理矢理押しいられたのであった。時刻は午後四時三十分のことである。
「うえええ、ごめん、ごめんなさい、エル兄ぃーっ!!」
「うるせえなっ、このガキ共! さっさと散れ!!」
「あっ、」
地べたに倒れ込んで泣きじゃくる子供達に、売人達が再び蹴りを入れた。
***
「はぁい、ヤクモ元気してるぅ?」
午後五時ともなると、ヤクモはその足をスラム街へと戻していた。他所行きモードのヤクモに声をかけ、腕に絡まりついてきたのはヤクモのもう一人の腐れ縁・スラム街の娼婦であるイリアであった。イリアは茶色くウェーブしたロングヘアーをざっくりと背中に流し、大胆に胸元の開いた肩丸出しのドレスを身に纏っている。香水臭いイリアの登場に、ヤクモはわざと顔をしかめてみせた。診療室まであと五分、と言った距離か。
「イリア、香水くせぇな。さっさと離れろよ」
「やだ、人聞き悪いわね! 相変わらずツンツンしてるんだからぁ」
「うるせぇな、てめーこそ客に、変な病気移されてねえだろうな」
「ふふ、そこらへんは大丈夫。避妊だってちゃんとしてるし……ヤクモの薬のお陰よ?」
『ありがと♡』と言って口紅を塗った唇で、ヤクモの頬にキスを送ってくるイリアは、ヤクモの筆下ろしの相手でもある。当時ヤクモはまだ十二才、イリアは十五才で娼婦デビューもまだであったが、ヤクモはセンジュと並んで寝かされて、その純情をイリアに奪われたのであった。
「ん? 俺ももう二十七か……てことはイリアお前、」
「うるさいわね! 女性の前で年齢の話はタブーよ、ったく、いつまでも子供なんだから!」
「ハハ、仕方ねえだろ。抗っても抗っても、月日ってのは無慈悲なもんだぜ?」
「それでもあたし、いつまでも美しくありたいの! そのためにも男共から精力を搾り取らなきゃね……っていうか、ねえヤクモ?」
「なんだよ」
「センジュから聞いたんだけどぉ、なんだか随分綺麗な男の子囲ってるそうじゃない? アンタもついに、男に目覚めたのねえ」
「……別に、男に目覚めたわけじゃねえよ。センジュがほざいてるだけだ」
「ふふ、でもアンタのことだから、抱いてるんでしょう?」
「……チッ」
「あら図星! ねえ……日がな男の子の相手だけじゃ、アンタの腕も鈍っちゃうわよぉ。たまにはあたしと……ね?」
「イリア、」
「女のあたしにここまで言わせて……アンタって罪な男ね、ねえ良いでしょう?」
「……」
新しい煙草に火をつけて、腕に絡まりつかれたままヤクモは懐中時計を見やる。まだ、午後五時だ。エルメールには『夜まで留守だ』と言いつけている。押し付けられた、たわわなイリアの胸を見ると、ヤクモも男だ。むらりとその多大なる性欲が、揺らぎだす。煙草から口を離して、火を付けたばかりのそれを地べたに捨てて靴で火を消して、すぐそこのイリアの店へと、ヤクモはその身を潜らせて行った。
「つかお前、娼婦だからって、俺は金なんざ払わねぇぞ」
「ふふ、わかってるわよ。ヤクモからお金なんか取らないってば……その代わり、きぃっつく、抱いてよね?」
「ふん」
スラム街の秋の夕べの、日がしっとりと暮れて行く。
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