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13.スラム街の闇医者と落ちてきた片翼の天使・終①
「ああ、ああ、そうか。そうだ、エルメール……私の愛した天使よ」
水晶を手に、遠い天界で神が涙している。水晶の中では、いつか美しい両翼をはためかせ微笑んでいたエルメールが、その片翼をも傷つけて苦悶している。
「罪深い私を許しておくれ、エルメール」
神が涙すると、地上に雨が降るのだ。
***
「うっ!!」
「エルっ!!」
エルメールが美しい顔を歪め、ヤクモが驚いて目を見開いたところ、ヤクモにエルメールの血が降り注いだところで空からにわか雨が降る。晴れた空から降るそれはサァサァと静かに降り注いでは、ヤクモの顔に飛んだ天使の血を、エルメールの羽根から流れる血を、洗い流すようであった。
エルメールが、傷ついた羽根をふわっとはためかせ、自分の下敷きになっているヤクモに柔らかく温かく微笑みかける。
「大丈夫、でしたかヤクモ? ごめんなさい、ニコラは少々気性が荒いものでして」
「エルッ、お前こそ……羽根が、」
「だ、大丈夫です。天使の自己治癒能力を甘く見ないでください、これくらいだったらすぐに、」
エルメールが自身の羽根に手をかざし、何事か呟こうとしたところに、少し遠くにいたニコラががばっとエルメールの背中に飛びついた。
「ニコラっ?」
「その人間が僕のモノにならないならっ……仕方ないなぁ、まずはエルメール。お前のその醜い片翼、それも僕がもいであげる!!」
「えっ……あ゛っっ!!?」
ぎちっ。ニコラがその聖なる力をもってして、雨に降られて全身を濡らしながらもエルメールの傷ついた片翼の根元を持って、そう、言ったとおりもいでしまおうと力を込めた。
「っこの、クソガキ、それ以上止めろ!!」
「かはっ!?」
そこに、倒れ込んだヤクモの革パンツを纏った蹴りが入る。鳩尾に思いっきりに入ったようで、ニコラは聖人の息子たるヤクモの蹴りで怯んだからその隙にヤクモもやっと起き上がり、傷ついたエルメールを半身を起こした状態で抱き寄せる。血が、とめどなく流れ落ちる。エルメールの息が上がっている。
「はっ……ヤクモ、ニコラを傷つけては」
「そんなこと言ってる場合か! お前、片翼だってあいつにもがれたんだろ!! 残りの羽根までもってかれるところだったんだぞ!?」
「ニコラは悪くありません。きっと……僕がきっとニコラを傷つけて、それで」
「お前、」
どこまでも、エルメールは天使であるのだ。あの、両翼を持った力のある黒髪の天使よりも。きっとどこの天使よりも、エルメールは天使なのである。今まで何度も抱いてきた存在なのに、それを思うとやっぱりエルメールがヤクモには手の届かない存在に思えて、切なくなって苦しくなって誤魔化すように眉を潜める。その間にもニコラは、ヤクモの蹴りに激昂して『ああああ! もう!!!』と声をあげ腕を振り上げ、空を切る光る刃をエルメールとヤクモの方に、二人もろとも、と、飛ばしてきた時であった。
『ニコラ、もう止めなさい』
「えっっ……」
ニコラの刃は光輝くその、ニコラとヤクモ達の間に立った人型の影に払われ、あっけなく消える。ヤクモには聞こえない、天使二人にのみ聞こえた声と、天使にのみ良く見えるその人型は、
「「神っ!!」」
それこそこの地上界、天界をも見守り掌握する、この世界の神の化身であった。
***
『……ニコラ。お前が私を惑わせていたことには、もう気がついている』
「神、神よ、何故地上の……あっ、水晶!!」
エルメールへの憎悪から、ニコラは気を抜いていたのだ。一刻も早くエルメールの元に降りてきて、一刻も早くエルメールから全てを奪おうと思い、早計になったばかりに管理していた水晶を、神から奪った水晶の、結界を緩めてしまっていた。
『それにしても、この私を惑わせるとはニコラ、お前の力の強さには参ったよ』
ヤクモに抱き寄せられたエルメールは、今まで何故か顔も思いだせなかった神の、自分を救わなかった神の姿を見ると自然、ポロポロポロ、と真珠のような涙を流す。ヤクモにその姿はハッキリと見えず、ただぼんやりとした光に、天使二人が話しかけているのを呆然と眺めていた。
「神……神よ、僕、僕はずっと、」
『エルメール。お前には謝らなければいけないね、随分辛い思いをさせた。それにその片翼、いますぐに癒そう』
「良いんです、神、神、こうしてあなたが私の前に現れた。それだけで、僕は、」
人間であるヤクモに抱き寄せられながら、エルメールはまだ涙を流している。そのエルメールの背中にふっとぼんやりした光……神が近づいて、触れるとぱぁっとまばゆい光が辺りを包む。にわか雨は、いつの間にか止んでいる。光が止む頃、エルメールはその睫毛を震わせて目を閉じて、顎を上げて彼本来の、何よりも美しく尊い両翼を、取り戻して地上界で、はためかせたのであった。はら、と一片天使の羽根が、ヤクモの胸元にも落ちてきた。
「エル、お前、羽根が、」
「ヤクモ……ありがとうございます。僕、これでもう天界に帰ることができる」
「天、界?」
呆然とする。そうだ、いつかその羽根が癒える時までの仮初の関係だったのだ。天使エルメールは神の使い。こんな汚れた空気の地上界で、闇医者なんかに飼われていて良い存在ではない。当たり前の事実にどこか胸を痛めていると、しかしまだ諦めていないニコラがヒステリックに声をあげる。
「そんな、そんなの認めない!! 神、神よ! 僕にどうとされていたからって、あなたは『僕だけ』だと誓ったでしょう!?」
『ニコラよ、お前の事は今でも可愛く思っているよ。しかし、エルメールを傷つけ、地上に落としたその罪は、償わなければいけない』
「罪!? 罪ならそこのエルメールの方が罪深い!! あなたのモノでありながらこのエルメールは、そこの人間に何度も抱かれて愛を囁いた! そうでしょう!!?」
『天使が人間を愛する事は、至極自然なことさ、ニコラ。それにそのスガワラは、特に特別な存在だろう』
「そんっ、な……神、神、あなたが愛したこの僕に、ほんとうに罰を与えるっていうんですか?」
涙ぐんでかわいこぶったニコラに神は苦笑いをする。そこに、その会話にハッとしたエルメールがヤクモから立ち上がり、神の御許にひざまづいて見せる。両手を合わせて祈るように、神に請う。
「神よ。ニコラも……神を憎んでこんなことをやったわけではありません。悪いのは僕、僕がニコラを、きっといつからか傷つけ続けていた」
『エルメール、私の可愛い天使、お前は本当に、私の愛した天使であるね』
「どうか、あなたの罰を止めるすべのない僕ですが、どうかニコラには寛大な措置を、」
『ふふ、エルメール。お前は本当に優しい。優しくて、美しい……そこのスガワラに、私も少し嫉妬してしまうよ』
「!! ヤクモは関係ありませんっっ。ヤクモは、その、僕をこの地上界で匿ってくれていた、性根の美しい人間です」
『わかっているさ。今となっては全て、全てが私に理解させるのだ。しかしエルメール、お前はその人間と、ひととき離れなくてはいけない』
「……はい」
光に話しかけているエルメールに『性根の美しい』と言われたヤクモはその顔を歪める。それにしても、エルメール。両翼を取り戻したエルメールは、きっと。エルメールがヤクモを振り返る。天使たる慈愛に満ちた、美しく尊い表情で、それはまるで天使を通り越して神のように、後光がさしているようであった。眩しくて目を細める。別れの時はきっと来る。
「ヤクモ、本当に、ありがとうございました。僕は、天界に、帰らねば、」
そこまでいって美しかったその表情が涙に歪んだから、その歪んでしまった天使が見えないようにと、ヤクモは立ち上がってエルメールを力強く抱き寄せた。甘い香り、きっとこれが天界の香りなのだ。その香りに包まれて、どんなに人間に汚されても穢れないエルメールを抱きしめて、エルメールの言葉を遮る。
「エル、」
「ヤクモ、僕、ぼくはあなたが、きっと、ぼく、たぶん本当に、」
「エル、それ以上言うな。言わなくて良い。お前は天界とやらに帰って、そんでカミサマとやらに仕えることが幸せなんだろ」
「ヤクモ」
「俺には良く見えないけど、そこに、地上界に神様ってやつが迎えに来たんだろ? お前みたいなのがこんな汚れた人間界に長くいたら……ハハ、売り飛ばされちまうかもしれないしな」
「……ヤクモぉ、ぼく、僕、」
「来るべき時が来た、それだけだ。俺は今まで通り一人であのスラム街で、適当に馬鹿共の診察でもしてるさ」
「ぐすっ、ぅう、」
「それぞれが、それぞれの生活に戻る。それだけのことだろ?」
「僕、きっとあなたに会いに、きっと……」
と、言いかけたところでヤクモとエルメールの後ろの光がより眩くなる。
『エルメール、時間だ。私もそう長くは地上にいられないからね……帰ろう、ニコラもエルメールも、一緒に天界へ』
「ふん、」
ニコラの声を皮切りに、ふわっとエルメールの体が宙に浮く。ヤクモはあっさり抱き絞めていたエルメールを手放して、遠い空に消えていくエルメールを見上げる。
「ヤクモ、僕はあなたを……――、」
遠い空に消えていったエルメールの、最後の台詞には聞こえないふりをした。
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