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晴れの夜、雨の夜 4

帰る足音が消え、かすかに車が出る音がした。広瀬のアパートは静まり返っていたので、外の音はよく聞こえる。 広瀬は、君塚が飲み干したコーヒーのカップを流しにもっていってゆすいだ。 東城が、後ろに立つ。彼の手が、広瀬の肩から首にかかった。 「君塚、何しに来てたんだ?」と東城が聞いてきた。知っているどの声よりも、機嫌が悪い。 「別に」と広瀬は答えた。「車買ったからって、のせて帰ってくれただけですよ」 「で、お前の家のあがりこんでたってことか」 東城の手は首から動かない。 「コーヒーくらい」と言った。前にも言ったように俺はあなたの所有物じゃないんだから、誰を家に入れようが、コーヒーを入れようが勝手だ、と内心思っていた。態度にも出ていただろう。 広瀬は東城の手をはらい、リビングに向かおうとした。 が、口調だけでなくその動作も気に入らなかったのだろう。気がついたら、足を払われ、床に倒されていた。頭が強く床にあたり、一瞬くらっとする。 東城が、自分の足にまたがり、上にのってくる。広瀬は、かっとなって、こぶしを作り、下から殴ろうとした。東城は、彼の両手を自分の両手でそれぞれつかみ、床に押さえつけた。広瀬は、反射的に頭をあげ、頭つきをしようとするが、あっさりよけられる。 「おっと」東城ののどがなった。少しだけ笑っている。冷酷な笑いだった。「お前は、ほんとに喧嘩好きだな」 東城に体重をかけられ広瀬は動けなくなる。 広瀬は、考えをめぐらせた。倒れて上から乗られている間は、状況は不利だ。この体勢から逃れる必要がある。そして、今は東城は両手両足を使って自分を抑えているので、それ以上のことはできない。 だが、力づくで、どちらかの手で広瀬の両手をおさえられたら、自由になった手で、殴ろうが、いたぶろうが、東城の思いのままになる。それは絶対に避けなければならない。現に、東城はじりじりと、広瀬の右手を頭上に動かし、左手と近づけようとしている。 広瀬は力を張って今の位置から動かさないように床に右手を押さえつけた。そうしながら、視線を床に走らせる。なにか、自分の身体の一部をひっかけることができるものがあれば、それを梃子に、少しは形勢を変えることができるかもしれない。 東城が、手に意識をもっていき、すきがでたら、と広瀬は思った。人間の集中力はそう長くは続かないものだ。必ずどこかにすきがでる。その時、的確に反撃すれば、この体勢から逃れる可能性はあがる。 東城は、自分をじっと見下ろしている。広瀬の動作の意図は知っている。「どうした?動けないのか?」挑発された。 広瀬をかっとさせるために言っているのはわかっている。くやしくて唇をかんだ。こういう屈辱は許せないのだ。 東城はさらに体重をかけてきた。痛みを感じるほどだ。足を動かそうとして、ひきつったのでとめた。このまま無理に動かすと、後がまずい。 「君塚の寝技はもっとすごいらしいぞ。あいつたしか、高校のとき柔道全国2位だったとか言ってたしな。まあ、お前は寝技かけてもらいたかったんだろうけどな」 広瀬の頭の中が沸騰する。君塚とはなにもなかったのは東城もみていただろうに、こんなことを言われるとは。どうして勝手に決め付けるのか。後先省みず、暴れると、ますます、東城の体重がかかる。これ以上重みはないと思っていたが、まだ、加減していたのだ。 東城が顔を首に近づけてきた。ポロシャツなんか着ていないで、シャツにネクタイをつけていればよかった、と広瀬は後悔する。首ががらあきだ。 東城の熱い息がかかり、口が首にかかった。 いつものように広瀬を感じさせるために吸われるのかと思ったが、その考えは甘かった。東城はためらいもなく歯をたててきたのだ。広瀬は、軽く声をあげた。だが、東城は痛みを与えることに容赦なかった。 少し口が離され、言葉が聞こえる。表情はみえない。 「俺もいままで色んな女と付き合ってきたけど、ちょっと会わない間に、自分がかわいがってた後輩を家にくわえ込むようなのは、お前だけだよ、広瀬」角度を変えながら、東城は歯をあててくる。「やれれば誰でもいいのかよ。あいつがお前のことどういう目でみてたか」 屈辱的なことを言われた。 東城の歯が喉笛にかかる。 広瀬は息をのんだ。きつい痛みが走り、わずかだが、血の匂いたした。噛み切ろうとしているのだ。 このまま動脈を食いちぎられ、殺されるかもしれない。恐怖が広瀬をとりまいた。総毛立ち、頭から血の気が引く。怖い、という感情が膨らみ、冷静になれという考えを凌駕していく。怖い、怖い、という恐怖が全身をとらえていく。 意思に反して、四肢に入れる力がどんどんなくなった。 自分の意思では、自分を保てない。広瀬はぐったりしていった。 広瀬の異変に気づいた東城は、顔をあげた。 そして、今日、初めて、広瀬を心配そうな顔で見て、反射的に手をはなし、身体をどけた。 広瀬はやっとの思いで身体を起こした。目がかすんでいる。 渾身の力をこめて、東城を平手打ちした。避けることもできただろうが、東城は自分をかばいもよけもしなかった。 広瀬は、東城を押しのけ、立ち上がり、壁に伝うようにして、洗面所にむかった。首も両手首も足も痛む。 洗面所の電気をつけて、鏡で首をみると、歯型が何箇所もつき、血がにじんでいた。顔がぼうっと映っている。今まで気づかなかったが、涙があふれて、頬をつたっていた。 顔を洗おうと蛇口をひねろうとしたとき、玄関がバタンと音をたててしまるのが聞こえた。東城がでていったのだ。何も言わずに。 広瀬は、そこで力が尽きてうずくまり、意識をなくした。

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