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晴れの夜、雨の夜 7

夜に書類を整理していると、広瀬は、上司の高田に呼ばれた。ファイルを渡される。 「明後日からの研修の資料だ」といわれた。 そういえば、スケジュールに入っていたのをすっかり忘れていた。忙しいときにいつも研修を入れてくるのは、警察の不思議の一つだ。こう仕事があると、研修期間中にも戻って仕事をしなければならないだろう。夜遅くなるのはいつものことだからかまわないけど。 高田は、簡単に研修の内容を説明し、「俺が今回の研修でお前に期待してることわかるか?」と聞かれる。 「研修内容を仕事に活かすことですか?」と聞いた。高田の話は時々クイズみたいになって、広瀬は苦手だ。 「まあまあ、それは当然として、俺がお前に期待することは、とにかく」と言葉をきり、指を2本あげる。「教官や他の研修生に喧嘩をうらないこと、本庁でも通勤途中でも、どこでも何があってもわき目をふらず研修に集中すること、この2つだ」 「はい」どれも当たり前のことなので、なんでわざわざ高田が指を折ってそんなことをいうのか、広瀬にはいつもわからない。 高田は、うなずくが、ため息もつく。「お前、いつも、返事はいいんだよな。でも、結果、俺が予想もしないような、騒ぎになるんだ」 広瀬は、そんなことはありません、といいたかったが、反論しないでおいた。 高田は、その後、研修の資料をちらっとみて、広瀬の頭を指差してくる。「ちょっと髪長いぞ。今年の研修の教官、結構そういったことにうるさいから、髪切っとけよ」と忠告してくれた。 広瀬ははい、とまた、素直に返事をした。研修場所を見ると、本庁になっている。 「同期の連中もくるんだろう。まあ、たまには他の部署と情報交換したり、上司の悪口でもいって羽を伸ばしてこい」と高田に言われた。 翌日、言われたとおりに髪を切っていくと、高田は、「うわあ」と言って、あまりにもおおげさにおどろかれた。「お前、ばっさり切ったな」 切れといったから切ったのに、驚かれるというのは、はなはだ不本意だった。 高田は、まあ、いい、といった。「俺が切れって言ったんだよな。ちゃんと命令どおりでよろしい」ともいった。 前髪もほとんど残さず、かなり短く切ってしまった髪をみて、隣の席の宮田は、しばらく口をあけていた。その後、高校生みたいだなといった。「さっぱりしていいけど」とも言われた。 だいたい、その日会った署の人間は、広瀬の頭をみて驚き、おおげさにあとずさりする人もいた。 人によってはまた何かしでかしてとうとう高田さんも堪忍袋が切れて、反省させられたのか、と聞いてきた。そうではないと説明すると、多くの人が宮田のようにさっぱりしているし、似合わないわけではない、と伝えてきた。 今までこんなにいろいろな人に話しかけられたことはなかった。相当違和感があるのだろう、と流石に広瀬にもわかる。そういえば、いつもいく床屋も、こんなに切って大丈夫ですか、と何度も確認してきた。 君塚は、似合いますよ、と言った。彼は、なにもなかったように態度を変えていない。あの日の翌日、隠しきれない手首のあざを目にしたはずだが、何も言わなかった。東城とその後どうしているのかも、聞いてこなかった。だが、二人の間で何があったのかは察しているのだろう。 その日の夜、残って仕事をしている広瀬は、宮田と一緒に高田に飲みに誘われた。高田はたまに、飲みに誘ってくる。広瀬は、ほとんどの飲み会は断るのだが、高田から個人的に誘われるのは断れず、ついていくことになる。頻繁でないから、というのも行く理由だ。 雑然とした居酒屋で、高田は広瀬に日本酒を勧めてくる。 宮田は、日本酒は苦手と伝えてビールを飲んでいるが、広瀬はあまりこだわらないので、飲めといわれればなんでも飲んだ。 机の上に並ぶ食べ物にはあまり手をつけないでいると、宮田に食べないのか?と聞かれた。 「お前、最近あんまり食べないよな。体調悪いのか?」と宮田に聞かれる。 「そんなことはないよ」と広瀬は答える。「食べるときには食べてる」 「そうか?普段の食べっぷりからすると、少ないよな。大丈夫か?」 「フードファイターじゃないんだから、そう年がら年中大食いにはならんさ。食べたくないときもあるだろ」と高田は横から言った。「それより、広瀬、研修先で、俺に注意されて坊主になったなんていうなよ」と釘をさされる。「大井戸署では、なんかしたら責任とって坊主にならされるなんて噂になったら、異動拒否するやつがでてきそうだからな。今日だって何人もに、広瀬、今度は何やりましたか?なんて聞かれて訂正するの忙しかったんだ」 「はい」広瀬は、返事をした。高田にも広瀬が言われたのと同じような質問をする人がいたわけだ。 そんなに飲んだつもりはなかったのだが、帰り道で広瀬は気分が悪くなり、途中の公園のトイレで吐いた。 宮田が気にして、何度も大丈夫か、とトイレで声をかけてきた。 高田は公園のベンチに座って広瀬を待っていた。自販機で買ったペットボトルのお茶をくれる。 「すみません」と広瀬は言った。酒を飲んだ後、人前でこんな失態は初めてだった。迷惑をかけてしまった。おまけに、ベンチに座り込んで、お茶を飲むが、酔いが抜けず、なかなか浮上できない。ほとんど気を失いかけながら、手を組んで、腕の間に頭をあずける。 「広瀬は、もう少し、自分の気持ちとむきあったほうがいい」と高田に言われた。「案外、人間は、自分がどんな気持ちでいるのか気づかないもんだ。親しい人との関係で、自分が本当はどう思っているのかとか、どの程度傷ついているのかとか、ゆっくり考えて、その気持ちを認めたほうがいい。自分の気持ちをずっと無視して生きっていうのは、結局はいい結果は生まないものだ。たまには、泣いてすがったり、とりみだしたりするのも、いいものだぜ」と、広瀬にとってはまたクイズのようなことを言われた。 高田がなにをいいたいのか、酔いで頭の回らない広瀬には結局わからなかった。

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