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晴れの夜、雨の夜 8

研修は一週間ほど続き、その間広瀬は本庁に通った。 広い建物で自分がいるのは研修場がメインなので、東城に会うことはないと思っていたが、1階や食堂で、似たような背の人間をみると一瞬たじろいだ。会いたいのか、会いたくないのか、よくわからなかった。当たり前だが、彼を目にすることはなかった。 研修では、高田が行っていたように久しぶりに警察学校の同期に会った。 広瀬は学校でもだれかと親しくなることはなかったのだが、向こうは広瀬を覚えていて、何人かに親しく話しかけられた。最終日の後で、広瀬は市川という男に飲み会に誘われた。 同期の女性も数人きて、10人程度の飲み会だという。その手の飲み会は苦手なので、断っていたのだが、最終日のチーム戦で負けたらいうことを聞くと約束させられてしまい、いくはめになってしまったのだ。 広瀬の隣に座ったのは佳代ちゃんと呼ばれていたかわいらしく活発な女性だ。警官募集のポスターになったりして、有名なので広瀬も知っていた。 おどろいたことに、彼女も広瀬を知っていた。 「広瀬君って、あの、交番のアイドルでしょ?」と言われた。 佳代ちゃんの隣のさおりちゃんも話に加わってくる。「そうそう、そうよね」 広瀬は、固まってしまう。自分を話題にされるとは思っていなかったのだ。 広瀬の正面に座っていた市川がうなずく。「佳代ちゃんがどうしても広瀬と話したいって言うから、ひっぱってきたんだぜ」と言った。 佳代ちゃんはニコニコしている。「さずがに女子高生が交番にむらがってきてただけあって、美形ね」と彼女はいった。「わたしも、こんなかわいいおまわりさんが交番にいたらかよっちゃうわ」 最初の配属先の交番のことだ。若い広瀬がいたのを面白がられて、近所の高校の女子生徒たちが交番にからかいにきていた。広瀬にしてみたら、なれない仕事で忙しい中、女子高生たちが毎日、広瀬より良く知っているくせに道を聞いてきたり、財布をひろったといって友達の財布を持ってきたりして、迷惑この上なかったのだったのだ。 佳代ちゃんは、広瀬に、交番のときの話や今の大井戸署の話など適度に聞いてくる。良く話をし、よく笑う。こういった飲み会が苦手な広瀬にはありがたい存在だった。 市川が席をはずし、やや間があいてもどってきた。 「どこ行ってたの?」と佳代ちゃんが聞く。 「トイレいったら、知り合いの先輩に会って話してたんだ」と市川が言った。「むこうで飲んでるらしい。挨拶に行ったらおごってもらえるかも」と言う。 「そうなの?先輩って誰?」 「東城さんって知ってる?」と市川がいう。「同期と飲んでるんだって」 広瀬は耳を疑った。聞き間違いだといいと思った。ここでその名前を耳にするなんて、全く準備ができていなかった。 佳代ちゃんがさおりちゃんに言う。「東城さんってあの有名な?」 一瞬、有名ってなんだろう、と広瀬は思った。もう関係ないのに、気にはなる。 「そうそう、かっこいい人でしょ。顔はいいけど相当女癖わるいって先輩が言ってた」とさおりちゃんが返事をする。 「さおり知ってるの?」 「ううん。直接はしらない。東城さんの同期の女の人が今の私の課の先輩で、噂してたことがあるの。まあ、さすがに警察の子には手はださないらしいんだけど。かなり遊んでるって。ひっかかる女も多いから、男はやっぱり顔と金だって先輩断言してたわ」 「へえ」佳代ちゃんは面白そうにうなずく。「有名人だもんね。大手の飲食店チェーンかなんかの成金の息子なんでしょ」 「え、そうなの?わたしは銀座の不動産王の愛人の子供ってきいたけど」 噂っていろいろだなあ、と広瀬は変なところで感心した。訂正する人がいないと誤った方向にいってしまうものだ。 聞いていた市川が違うといって、「大きな寺の跡継ぎだろう」という。 「じゃあ、お坊さんになるの?」 「それがいやで警察になったってきいた」 どこからそんな話になったんだろう。本当に市川は東城の後輩なんだろうか。 さおりちゃんが突然広瀬の方をむく。「そういえば、広瀬君、大井戸署だから、この前まで東城さん一緒だったんじゃないの?」 「あ、そうだ」と佳代ちゃんも言った。「東城さんのこと知ってるの?」 「同じ部署だったから」知らないとはいいにくかった。 「え!そうなの?じゃあ、紹介して。おごってくれると思う?」 「女の人には、多分」と広瀬は答えた。見栄っ張りの東城が女の子に頼まれごとをされて断ってたのをみたことがなかった。 じゃあ、行こう行こうと佳代ちゃんがいい、3人ほどの女の子と、市川とで立ち上がる。広瀬は知らん顔をしていた。 「広瀬君、一緒に行こうよ。紹介してよ」と佳代ちゃんが言う。 「市川に紹介してもらえば」 「市川、なんか頼りないのよね。行っても親切にしてもらえなさそう」 「そんなことないと思う」と広瀬は言い、聞いていた市川もうなずく。が、彼も「前の部署の先輩ならあいさつに行ったほうがいいと思うよ」と良識的に言った。 かなりみんなに強めに言われ、仕方なく広瀬も立ち上がった。

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