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第35話

 肉体的なものか、精神的なものか、もしくはそのどちらともか。疲労は蓄積されているというのに、セイランの眠りは浅く、部屋の戸が開く小さな物音に反応しベッドの中で薄らと目を開ける。部屋に入ってきた人物は、足音を殺し、息を殺し、こちらに近づいてきている。音を立てないように細心の注意を払っているようだが、気配を殺せていない時点で完全に素人だ。  これまでの日々の中で安心して深く眠ることを忘れてしまったセイランを起こすには十分すぎるほどの音と気配。そんな何者かの気配を感じながら、セイランは狸寝入りを続ける。  最初はルピナスが様子を見に来たのだろうと思っていた。今回はこれまで以上に心配していたし、何より少し様子がおかしかったから。  だが、足音や息遣いに耳を澄ましてみると、それがルピナスではないと気づいた。微かに床が軋む音、それから分かる歩幅と体重。明らかにルピナスのものではない。それなら他に見当がつくのはミハネくらいのものだが。  足音は真っ直ぐこちらに近づいてくる。もうあと数歩でベッドに辿り着く。侵入者の呼吸の音がはっきりと聞こえる。  それを聞き取った直後、セイランははっと息を飲み、咄嗟に体を翻し、ベッドの縁から自ら落ちた。セイランがベッドから落ちるのとほぼ同時に、ドスッという籠もった音がセイランが今まで眠っていた場所から聞こえた。 「くそっ……! 起きていたのか……!」 「な、どういうことだよ、なんで、おれを……!」  ベッドの上には、短刀が突き立てられていた。直角に突き刺さったそれは、間違いなく命を狙った一刀。素人の腕力、死にはしなかったかもしれないが、それでも当たりどころが悪かったら、もし避けていなかったらと思うと、ゾッとする。  悔しげな顔をしながら短刀を引き抜こうとしている男は、確かこの宿の店主の男。顔見知り程度ではあるが、命を狙われるような恨みを買った覚えはない。近づく時の不十分な音と気配の殺し方。近づいた時に聞こえた昂った息遣い。これから不意打ちをすることへの緊張と、隠しきれない殺気。間違いなく、殺しの素人。そんな相手がなぜ急に自分を襲う真似をしたのか、セイランには理解できなかった。  ベッドから落ちながら受け身をとり、すぐさま身を起こしたセイランは、店主の男を見上げる。男の視線からは自分への恨みは感じない。それなのに強い殺気を向けている。 「なぜ? そんなこと自分が一番わかっているだろう!」 「そんなこと言われても……、おれ、何も……っ、!」  わかっているも何も、セイランはこの宿には今日ルピナスとミハネに運び込まれたはずだ。宿に迷惑をかけるようなこと、まして命を狙われるようなことをした覚えはない。もしくは昔のことでも言っているのかとセイランは必死で以前利用したときのことを思いだそうとするが、店主の方は問答無用で無惨なベッドを挟んだまま魔法を使い、セイランを水球の中に閉じ込めた。 「っ、ぐ、ぅ、がはっ……」 「なんだ……? こいつ、本当に……?」  普通ならば、これくらいの水球ならば風の魔法で引き裂くことが出来る。魔法使いでなくとも、日常生活で使う程度の風で呼吸くらいすぐに可能になる。だが、魔法が使えないセイランには、当然そんなことは出来ない。水の中から脱出するために必死でもがくが、先ほどエンジェルリーパーで受けた魔法の名残か、すぐに息がつかえて、呼吸が出来なくなる。  苦しい。  いやだ。  たすけて、 「……る、ぴ……、な、す……」 「……そう、それでいいんだ」  無意識だった。  その名前が、最初に浮かんできて、届くはずもないのに、セイランの口は勝手に彼を呼んでいた。  直後、水で歪んでいた視界が、瞬く間にクリアになる。水間で揺れていた体が解放され、セイランは床に倒れ込んだ。やっと吸い込めた酸素に噎せていると駆け寄ってきたミハネがセイランを助け起こし、背中を叩いて水を吐き出すのを手助けする。

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