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第2話
───パチン。
「あ…」
頭の中でスイッチが入る。
それと同時に、目の前の景色がガラリと変わった。
正確には、頭の中で勝手に映像再生がはじまったと言うべきか。それはもう何度も見た、けれど一度も訪れたことのない異国と思しき風景だった。
今、目の前では大河が悠々と流れている。今にも溶け落ちそうな真っ赤な夕日が対岸にある大聖堂の尖塔に架かろうとしていた。
空は刻一刻と明るさを手放し、透き通った藍色のグラデーションがすべてを覆い尽くしていく。世界の終わりのような景色の中、鎮魂とも思える鐘が、ゴーン、ゴォーン……と重々しく響き渡った。
こんなふうに、そこにあるはずのないものが見えたり、音が聞こえたりすることが時々ある。
内容は毎回決まって同じなので、もしかしたらテレビの映像や映画のワンシーンを無意識のうちに頭の中でくり返してしまっているのかもしれない。それでも、この映像を見るたびにこみ上げるどうしようもない寂しさや焦燥感といった感情は何度経験しても慣れることがなかった。
自分の中でなにかが共鳴しているような不思議な気分だ。知らないもののはずなのに、どこか懐かしく、なぜか切ない。
再生が終わったのを確かめて歩は静かに深呼吸をした。
「……ふぅ」
毎度のことながら難儀なものだ。それでもこれといった害もないため、こういうものと割りきってつき合っていくしかないだろう。
「さて。それより仕事!」
自分の背中を押すつもりで声に出すと、勢いをつけて立ち上がった。
明日から楽しみにしていた夏期休暇に入る。いよいよ憧れの地ルーシェへ旅に出るのだ。心おきなく休むためにも、できるだけ仕事を片づけておかなければと気合いを入れながら歩はエレベーターに向かって歩きはじめた。
東京ナショナル美術館は、波打つガラスのカーテンウォールが特徴的な建物だ。
地上三階の各階には展示室やカフェ、最上階にはアートライブラリーや研修室を備え、地下一階にはミュージアムショップも設けられている。特に三階のフレンチレストランは展覧会とのコラボメニューが人気で、SNSでもよく話題になっていた。
二年後のグラツキー展ではどんなメニューが出されるだろう。どんなウォールバナーが掲げられ、そしてどんなオリジナルグッズが販売されるだろう。
そんなことを考えている間に、職員用のエレベーターが三階へと到着する。下りてすぐ目の前にあるのが歩の職場である事務室だ。
「おはようございます」
ドアを開けると、何人かは図録や資料に埋もれながらすでに仕事をはじめていた。
「あ、三倉くん。おはよう!」
声をかけてきたのは館長の八重(やえ)だ。
年齢で言えば母親と同世代だろうか。エネルギーにあふれた人で、重役ながらちっとも偉ぶったところがなく、さっぱりと明るい質で皆から慕われている。そんな性格は洋服の好みにも表れるらしく、黄色やピンクの服を纏ってにこにこと笑う彼女はいつ会っても気持ちをパッと明るくしてくれた。
そんな八重が、今朝は特別うれしそうな顔をしている。
「おはようございます。八重さん、なにかいいことあったんですか?」
「あったあった。グッドニュースよ。だから相羽くんに早く教えてあげようと思って」
「相羽さんに?」
今日の見回り担当である彼は今頃、一階の展示室にいるはずだ。
展示品や環境に異常がないかを開館前と閉館後に見て回る係のことで、展覧会の担当者に限らず、毎日持ち回りでチェックすることになっている。
その相羽に、わざわざ知らせにいくほど良いことがあったと言うのだ。
「三倉くんにとっても良いニュースだから」
「え? ぼくにもですか?」
なおさら詳しく教えてほしかったのだけれど、待ちきれない八重が「じゃあね」と手をふって行ってしまったので、あとから相羽に聞くことにして歩は自分の席に着いた。
パソコンを起動して出勤処理を行い、いつものようにメールソフトを立ち上げる。
受信トレイには、ルーシェ美術館のキュレーターであるニコライからのメールが届いていた。グラツキー展に向けて、メイン担当の相羽との間で行われているやり取りが八重や歩にも情報共有されているものだ。
文面を見るなり、歩は「わっ」と声を上げそうになった。
いや、自分ではこらえたつもりでいたけれど、なぜか周りがいっせいにこちらを見た。
「おいおい、三倉くん。声出てる」
「えっ」
目の前に座る高石(たかいし)が笑いながら話しかけてくる。
八重とは長いつき合いだという彼女もまたベテランのキュレーターで、おっとりとした性格ながら仕事はバリバリこなし、学会誌に論文をいくつも載せては研究分野を牽引してきた立役者だ。
「なにかいいことあった?」
「はい。グラツキー作品のリクエスト、こちらの希望どおりに出してくれるそうです」
「あら。それはおめでとう。ふたりともずいぶん頑張ってたもんね」
「ほっとしました。相羽さんもすごくよろこぶと思います」
声を弾ませながらあらためてメールの文面に目を落とす。今日はなんとなくいいことがありそうだと思ったけれど、まさにそのとおりになった。
「聞いたぞ。通ったってな」
ポンと肩を叩かれてふり返ると、立っていたのは件の相羽だ。
「相羽さん。もう見回り終わったんですか?」
「いや、八重さんに追い出された。『あとはやっとくから早く返事出してこい』って」
「えっ! 八重さんが見回り交代してくれてるんですか? 館長なのに?」
ふたりのやり取りを聞いていた高石がまたも噴き出す。
「相羽くん、何年も『グラツキー展やりたい。グラツキー展やりたい』って言い続けてたもんね。ずっとそれを見てたから、八重さんもうれしくってしょうがないんだと思う」
「ありがたいことです」
相羽はにっこりと微笑みながら歩の隣の席に着いた。
低身長と童顔があいまって、いまだ高校生に間違えられることもある歩とは対照的に、相羽はすらりとした長身と甘いマスクで周囲の視線をほしいままにしている。女性職員の人気を集めるだけでなく、彼を目当てに通ってくるアートファンまでいるそうだ。
それを聞いた時には驚くと同時に妙に納得もしたものだけれど、彼をよく知る人間からすれば、その内面こそ知ってもらいたいと思ってしまう。
こんなに仕事熱心で、面倒見のいい人はいない。
なにより彼はイワン・グラツキーを、そして画家を輩出したルーシェという国を愛し、多くの人に知ってもらいたいと情熱を燃やしている。それをずっと傍で見てきた。
「相羽さんが特にこだわってた作品、たくさん迎えられますね。文豪の肖像シリーズも、ルーシェ叙事詩も、皇帝の肖像画だって全部、ここに飾れるんですね」
「あぁ……。想像しただけで、ちょっとこみ上げるものがあるよな」
相羽ははにかみながらも感慨深げに目を細める。
「俺、学生時代にはじめてグラツキーの作品を見た時のこと、今でも忘れられないんだ。キャンバスに描かれたモデルの目を通してこっちの腹の中を探られてるみたいな、考えを見透かされてるような、すごく落ち着かない気分になった。あんなのは他にない。自分の中に、知らない自分がいるみたいだった」
「知らない自分が……。そういえばぼくも、昔からグラツキーの絵だけは他と違って見えました。魂が宿ってるみたいだなって、皇帝の肖像画は特に」
「俺もそう思う。ドミトリエフ美術館にある皇太子の肖像画もきっとそうなんだろうな。状態がひどくなければこの目で見たかったんだが……」
彼の言うように、コンディションに問題がある作品は、少しでも劣化を遅らせるために一度も展示されないまま保管に徹するケースもある。希望どおり作品を借りられるというのはほんとうにありがたいことなのだ。
「三倉が頑張ってくれたおかげだな」
「いいえ、相羽さんの交渉の賜ですよ。ぼくも早く、相羽さんみたいになりたいです」
そしてもっと支えたい。憧れの先輩から「おまえになら任せられる」と言ってもらえるようになりたい。
そう言うと、相羽は「うれしいこと言ってくれるなぁ」と笑いながら手を伸ばしてきて歩の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「わあぁ! ちょっと! 相羽さん! せっかく寝癖直してきたのに」
「ははは。ボサボサでもおまえはかわいいよ」
眩しいほどの笑顔を向けられ、思わず「うっ」と言葉に詰まる。同じ男の歩でさえ一瞬フリーズしてしまうほどなのだ。女性はさぞかし大変だろう。
「イケメンの破壊力っていうのはすごいんですねぇ……」
「おまえもあいかわらずおもしろいな」
くすくす笑われながらメールチェックを終え、回覧書類に目を通すと、ふたりは揃って席を立った。
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