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第3話
今日は、月に一度の企画会議の日だ。
数年先を見越した企画展のアイディアを持ち寄り、企画意図や作品、集客などについて各自プレゼンテーションを行う。これをクリアしてはじめて自分の企画展ができるだけに、とても気合いが入る会議だ。歩も「いつか自分も」と意気込むうちのひとりだった。
頭の中であれこれと思いを巡らせていると、なぜか隣を歩く相羽に笑われる。
「緊張してるな」
「そ、そう見えます?」
「あぁ。ガチガチになってる。そういうとこが放っておけないんだよな、おまえは」
先に立ってセキュリティのドアを開けながら、相羽はひょいと肩を竦めた。
「そういえば、旅行の方の準備はどうだ? 明日から行くんだろ?」
「あ…、はい。問題なくビザも下りましたし、あとは出発するだけです」
美術館という性質上、職員は交代で休暇を取ることになっている。お互いの都合を擦り合わせた結果、先に相羽が、次に歩が休むことになった。せっかくの機会なので二年後に迎えるグラツキー作品を現地で堪能することにしている。
「実家の法事さえ入らなきゃ、俺も一緒に行ったのになぁ」
「ルーシェ美術館は相羽さんにとっても思い入れのある場所ですもんね。でも、休みの日までぼくと一緒なんてつまらないでしょう」
休暇こそ仕事を離れて楽しむべきだ。
まぁ、休みの日まで企画展の予習をしようという自分が言っても説得力はないけれど。それ以前に、コンビで休んだりしたら仕事が止まる。そして八重に怒られる。
苦笑で返す歩に、なぜか相羽は意味深に目を細めた。
「俺は三倉と一緒ならうれしいけど。おまえの意外な一面も独り占めできる」
「相羽さんたら。ぼくにまでリップサービスしてたら疲れちゃいますよ」
「……おまえはほんと、初心というか、鈍いというか……」
ため息をつくのを首を傾げて見上げると、相羽はやれやれと眉根を下げた。
「まぁ、そういうのもおまえの良いところだよな。仕事熱心な後輩を持ってうれしいよ。しっかり目に焼きつけてこいよ」
「はい! お土産も買ってきますね」
「気を使うなって。その分、図録や資料山ほど買ってこい」
「もう。相羽さんこそ仕事熱心じゃないですか」
「現地でしか手に入らないものもたくさんあるだろう。見たいに決まってる」
「おっしゃるとおりです」
顔を見合わせてくすりと笑う。
会議がはじまる雰囲気を察して部屋に滑りこんだ歩は、知らぬ間に緊張が消えていることに気がついた。相羽がリラックスさせてくれたおかげだろう。これもきっと「プレゼン頑張れよ」という先輩の粋な計らいに違いない。
ならばと、強い気持ちとともに歩は会議のテーブルにつく。
運命の針は静かに動き出そうとしていた。
「───皆様。当機は、最終の着陸態勢に入りました」
客室乗務員のアナウンスに、歩は読んでいた本から顔を上げる。窓の外に目を向ければルーシェの大地がすぐそこまで迫っていた。
広々とした平野の遙か向こうに首都と思しき街並みが見える。きらきら輝いているのは国教会のシンボルである玉葱型のドームだろうか。写真では何度も見た、けれどこの目で見るのははじめてのことだ。
「これが、ルーシェ……」
思わず感嘆のため息が洩れた。
成田を出発して中国を越え、ロシアをも越え、十時間かけてやってきたヨーロッパとの境界の国。東欧文化の影響を色濃く受けた土地でもある。
これからここで、グラツキー作品をはじめとする多くのルーシェ美術と対峙するのだ。現地の空気感を思う存分満喫しようと胸を高鳴らせているうちに、飛行機は軽い衝撃音とともに無事にルーシェの玄関口であるザブロニク空港に到着した。
「……ふう」
飛行機を降り、新鮮な空気を吸いこみながら歩は大きく伸びをする。
覚悟していたほど疲れを感じないのは気持ちが逸っているせいだろうか。今すぐにでもホテルにスーツケースを預けて美術館に駆けこみたいくらいだ。
保安検査場を通って到着ロビーに出ると、ツアーガイドやタクシーの客引きが大勢屯していた。その中からあらかじめ手配しておいた現地ドライバーと落ち合い、車に乗りこむ。上々の滑り出しだとほっとしながら歩はセダンのシートに背中を預けた。
車窓に映るのは、どれも近代的な建物ばかりだ。
皇帝の絶大な権力のもとで一大帝国を築いたルーシェも、革命によって市民が力を手にしてからは多くの街が一変した。帝政時代の負の遺産として歴史的な建造物は破壊され、代わりに社会主義の象徴とも言えるコンクリートの街並みが誕生した。
それでも、二十分も走る頃には旧市街と呼ばれるエリアに入る。
景色はガラリと変わり、数百年の時の流れを見守ってきたであろう大聖堂や教会、彫像などが道の両側に並びはじめた。車道こそアスファルトで舗装されているものの、歩道には石畳も多く残る。街には運河が張り巡らされ、観光客を乗せた船が橋を潜っていくのを何度も見かけた。
そんな中、不意に目の前がパッと開ける。
「わぁ!」
歩は思わず身体を起こし、前のめりになってフロントガラス越しに景色を見つめた。
川だ。それも、とても大きな。
あれがルーシェの母なる川、ネフの流れだろう。この国に貿易による富と文化的発展をもたらしたネフ川は数百メートルもの川幅を誇り、大型船が何艘も行き交う経済の要だ。その向こうには金色に輝く大聖堂の尖塔と要塞が見えた。
かつて北方からの襲撃に備え、文字どおり国の最前線基地として機能していた場所だ。今は歴代の皇帝たちが静かに眠っているという。
そんな大聖堂の尖塔に、日の光が差した時のことだった。
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