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第4話

「……あれ……?」  いつもの映像が頭の中で再生される。けれど、戸惑ったのは発作が起きたからではない。馴染みのフラッシュバックが目の前の景色にあまりによく似ていたからだ。  偶然の一致というには出来すぎている。  かといって、ここへ来るのははじめてのことだ。  ───それならいつ、どこで見たんだろう。テレビで? それとも映画で?  思い出そうにも記憶になく、不思議に思いながら首を捻っているうちに車は建物の前で停まった。どうやらホテルに着いたらしい。ドライバーにチップを渡して車を降りると、タクシーは瞬く間に走り去っていった。  それを見送って、歩は大きくひとつ深呼吸をする。 「さて、と」  景色のことも気になるけれど、今はなにより美術館だ。  フロントで荷物を預かってもらうと、歩はホテルの前の通りを西へ向かって歩き出した。ここから美術館までは歩いて十分ほどだ。毎日通うつもりで一番近いホテルを取ったし、日数分のオンラインチケットも押さえてある。  それでもやはり、初日の期待はいやが上にも高まるものだ。  早足で運河を渡り、遠くに見えるエメラルドグリーンの壁に胸を高鳴らせながら通りを歩く。左に大きくカーブした道を抜けた先、突如現れた空間に歩は思わず息を呑んだ。 「わ、ぁ……」  広々とした王宮広場の前には、別名『孔雀宮』とも呼ばれるルーシェ美術館が堂々と聳え立っている。その圧倒的な存在感と美しさを前に賞賛の言葉すら喉に閊えた。  ルーシェ美術館はかつて宮殿だった建物で、歴代の皇帝たちが国の威信を懸けて世界中から集めたというコレクションが収められている。当時は限られた人間しか見ることができなかったが、今では文化事業として広く一般に公開されるようになった。おかげで歩も作品を鑑賞することができるし、日本でグラツキー展も開けるというものだ。 「相羽さん。代わりにしっかり見てきますからね」  今頃打ち合わせをしているであろう先輩に向かって念じると、歩は入場の列に並んだ。  それにしてもすごい人だ。チケット売り場の列なんてまったく進む気配もない。世界各国から観光客が集まる美術館だけに、時には入場が二時間待ちになることもあると聞いて覚悟していたものの、事前予約のおかげですんなりと中に入ることができた。  企画展でお世話になってるニコライは残念ながら今日は休みと聞いている。明日の朝に挨拶させてもらうことにして、まずは全体を把握しようと順路に沿って歩きはじめた。  真紅の絨毯が敷き詰められた白亜の大階段を上るとすぐ、金のレリーフで飾られた壁や彫像が現れる。高い天井にはオリンポスの神々が描かれ、大理石の床がシャンデリアの光を美しく反射していた。 「すごい……繊細で、なんてきれい……」  思わずため息が洩れる。  いくつもの建物から成るルーシェ美術館の展示室はざっと四百、総面積は四万平方メートルを超える。皇帝の謁見が行われた『玉座の間』や、先祖の威光を讃えた『大帝の間』など、贅の限りを尽くした部屋や垂涎のコレクションの前に立つたびに出てくるのは感嘆の声ばかりだ。鑑賞は遅々として進まず、十年かけても見切れないと言われる意味がよくわかった。  ほんの百五十年前までここで実際に政治が執り行われ、皇族たちが暮らしていたのだと思うと感慨深いものがある。文献を通して、グラツキーが活躍した頃のルーシェについて学んできたからこそ、本物が目の前にあると思うと胸がいっぱいだ。  感無量のあまりインプットが追いつかなくなってしまった自分に苦笑しつつ、いったん気持ちを落ち着けようと近くの椅子に腰を下ろした。  何気なく目をやった先に、ふと、小さな部屋を見つける。 「へぇ。あんな奥にも展示室があるんだ」  他と比べてこぢんまりして見えるせいか、訪れる人はいないようだ。そもそもルーシェ美術館に来る人の多くは有名作品を効率的に見て回ることを最優先にしているだろうから、誰も見向きもしないのだろう。  だからこそ、なんだか興味を惹かれた。  さっきまで胸がいっぱいになっていたのも忘れ、吸い寄せられるように近づいていく。  そろそろと中を覗くと案の定ガランとしていたが、驚いたことに部屋の中央には長身の男性がひとり立っていた。入口に背を向ける格好で壁にかかった絵を見ている。  その彼が、ゆっくりとこちらをふり返った瞬間、歩は思わず息を呑んだ。 「……わ、っ…………」  なんという美しい人だろう。絵から飛び出してきたのかと思うほど、その美貌は浮き世離れして見える。  身長は一九〇近くあるだろうか。輝く金の髪に、湖のように透き通ったペールブルーの瞳が高貴な血筋を連想させる。逞しい身体に纏うのは夜を一滴垂らしたような濃紺の詰め襟軍服で、肩からはサッシュをかけ、腰には剣まで提げている。およそ現代とは思えないクラシカルな装いにもかかわらず、気品のある彼にはよく似合っていた。  大人の色気が漂う一方、凜とした爽やかさが彼を瑞々しくも見せる。歳は三十といったところか。思わず見惚れてしまうほど美しく、不思議とどこか懐かしくも感じた。 「レナート……」  そんな男性の口から掠れた声が洩れる。奇跡を目の当たりにしたかのように、その目が忙しなく揺れるのが少し離れたところからでもわかった。 「やっと……やっとおまえに会えたのだな。どれほどこの日を待ち侘びたことか……!」 「あ、あの」 「私のレナート。もう離さない」 「わっ!」  男性は靴音も荒くまっすぐに駆け寄ってきたかと思うと、力いっぱい歩を抱き締める。  あまりに突然の出来事に、自分の身になにが起きたのかすぐには理解することができなかった。現地語と思しき言葉で話しかけられたというのもある。  ───レナートって言ってたけど……誰かを探してるのかな……?  ハッと我に返るなり、歩は相手の胸に手をついて必死に身体を押し返した。 「すみません。あなたの言葉がわからないので、英語で話していただけませんか」  できるだけ刺激しないよう、こちらからもていねいな英語で語りかける。 「それから、ぼくはレナートさんという方ではありません。人違いですよ」  首をふってみせると、男性は大きく目を瞠った。 「───まさか、覚えていないのか。私のこともすべて忘れてしまったのか」 「え? ……え?」  それはどういう意味だろう。  戸惑う歩に、男性は愕然とした様子で息を呑む。ペールブルーの瞳が狼狽に揺れるのを見上げていると、ややあって彼は長い長いため息をついた。 「……取り乱してすまない。景色を見ながら落ち着いて話そう。私たちはまずはお互いを知らなければならないようだ」  よくわからないけれど、こうなったらもう乗りかかった船だ。  覚悟を決めてついていくと、こちらへと促された北側の窓からは悠々と流れるネフ川が、対岸には金色に輝く大聖堂の尖塔が一望できた。  こうして見ると、やっぱりいつもの映像そのものだ。これが夕暮れ時だったらますますそっくりに見えるのだろう。 「あの建物を知っているのか」  熱心に見ていたせいか、期待を含んだ声で訊ねられ、歩は小さく首をふった。 「いいえ。……でも、何度も見ているような気がします。こんなことを言うと気味が悪いかもしれないですが、その…、時々、頭の中に浮かんでくるというか……」  あらためて言葉にすると我ながらおかしな話だ。  けれど男性は訝るどころか、「そうだったのか」と頷いた。

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