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幽霊棟の消失(2)
一年間の空白を経て入学した大学生活は、いまのところこれといった滞りもない。
新設されたばかりの第三校舎は、前面がガラス張りになっている。1限のため早く登校すると、朝日を反射した建物が、まるで内側から発光しているような輝きを見せる。
そのまぶしさは、洋画で目にする閃光弾によく似ていた。だからなのか、寝ぼけ眼の生徒たちに若干の迷惑をこうむった。
1月に訪れた入試会場では、みんな死んだような顔をしていた。
ぴりついた空気は肌の産毛を撫でた。俺はペーパーテストの出来よりも、教室に張りめぐらされた、その居心地の悪さにやきもきした。
だから初めて大学の門をくぐったとき、でんと構えた校舎の明るさと、在学生の色めきに驚かされた。
本当にあの冬と同じ南峠 大学か? と苦笑したのだ。
「トラー、ここ座っていい?」
俺は食いかけの定食から顔をあげた。
返事をするまえに、北は俺の向かいの、あいた席に座った。
入試の日に、ニキビだらけの馬面を、真っ青にした奴がいた。そいつは俺の2個前に座っていたのだが、各教科のテスト中にそれぞれ2回ずつ消しゴムを落とした。どんくさいなぁ、となんだか印象に残っていた。
そのどんくさが入学ガイダンスの場で、向こうから話かけてきた。黒かった短髪は金に染まっていた。けれど特徴的な馬っぽい面ですぐに、あの消しゴム男だ! とわかった。
それが北 と仲良くなるきっかけだった。
「北くん。虎治 様は、まだ返事してねーけど?」
「ケチ言うなよ。ここ以外あいてないんだ」
北の言うとおり、昼休みの食堂は賑わっていた。
席取り合戦をする生徒たちからは、エサに群がる池の鯉みたいな忙しなさを感じる。
「どうせ飯を食うなら、お前みたいな馬面じゃなくて、スタイルのいい、かわいい女の子と共にしたかったね」
「そんなこと言ったら、俺だって彼女と食いたかったわ! でもあいつ、今日は自主休校なんだからしかたないだろ」
ぶつぶつ文句を垂れ、長い鼻の下をこすった。ラーメンの汁を豪快に飛ばしながら、麺をすすっている。
それで北はふと居住まいを正すと、
「で、スポーツ万能、大鷲虎治 様は、いつになったらバスケ部に入ってくれるわけ?」
「北、何度も言うけど、俺はサークルに入る気ねえから」
「寂しいこと言うなよ。お前、顔がよくて運動もできるだろ? 身長も高いし。バスケにぴったりじゃん」
「バスケに顔は関係ないだろ」
「いや。イケメンがひとりいると、女子の新入部員が増える」
そんな真剣な目をされても、北くん。口から麺が飛び出てますよ。
「一年があんまり冴えないから、先輩ってば誰かいい人材を勧誘してこいってどやすんだよ」
「だったら俺を誘うより、バスケ部一年くんたちが冴える努力をするんだな」
「薄情だ! 俺たち親友なのに!」
「俺は女の子以外には優しくしねー主義なの」
コロッケの最後のひとかけを口に放り込む。すでに油がまわっていて、奥歯の上でぐにゃりとじゃがいもがほどけた。
軽くなったプレートを持って立ち上がる。すると北がきょとんとした。
「あれ、もういくの?」
「これからバイト」
「勤労だなー、身体壊すなよ青少年」
気が向いたらいつでも体育館来いよな。
言い終わるや否や麺をすすり出す北の背中を、俺は軽くたたいてから、机を離れる。
食堂のおばさんに何気なく「美味しかったです」と食器を返すと喜ばれた。
手を拭くのに使った紙ナプキンを丸めて捨てる。
ゴミ箱から顔をあげると、先ほど座っていた場所からは見えなかった部分を含め、食堂の全体がよく見渡せた。
この食堂は、メイン棟と親しまれる第二校舎にある。機材の揃った講義室が多く、授業も大半は第二校舎で行われるため、メイン、なのだ。
築十年以上の建物はところどころが劣化していた。けれどこの食堂内は白い輝きに満ち溢れている。
それは食堂の大きな窓から、メイン棟と対で立つ例の閃光弾――新校舎に反射した太陽光が、差し込んでくるためだ。新校舎からの恩恵。多少の古めかしさを、清潔な光は払しょくしてくれる。
そのまぶしさに、今日はいつもと違う点があった。
いや、正確には外からの光自体に、なんら変わりはない。おかしいのは室内。食堂のなかが変だった。
北は俺の前の席以外、あきがないと怒っていた。
しかし、壁のはじから3列、見るかぎり誰ひとり座っていないのだ。
なんだ。あいているじゃないか……。と思って、もしかして清掃中で使えないのかもしれない、と考え直す。
でもその考えもどうやら間違っている。なぜなら壁から数えて2列目のど真ん中に、ひとりだけ座っている生徒がいたからだ。
遠目からだから、どんな奴かまでは判別できない。ただあたまからつま先まで、ある一点を除いて黒い衣服で包まれているのはわかる。
除いた一点というのは、首元だ。
黒いあたまと黒い胴体を切り分けるように、首の部分に太く赤い線があった。
一瞬ドキッと背筋が凍える。
だって、あれじゃまるで首が切られているみたいじゃねーか……。
彼だか彼女だか――そいつが首を揺らすと、赤い線も揺らめいた。
それでようやく奇妙な赤色に察しがつく。
「……マフラー?」
切り取り線は、どうやら赤いマフラーのようだ。
でも6月の、すでにクーラーの運転が開始されている、この季節に。なぜマフラー。暑いだろ、どう考えても。
思わず固まっていると、追及するような咳払いが背後から聞こえた。俺を先頭にゴミ箱に渋滞ができていた。
「あ、すいません」慌ててどいて、俺は追い出されるような形で食堂を出た。
けっきょくレンタルビデオ店のバイトで、せっせと身体を動かしているうちに、その奇妙な光景のことは、すっかりあたまから出て行ってしまった。
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