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幽霊棟の消失(4)

 駅と隣接した駐輪場に、停めていたバイクを迎えにいった。  後輩と別れたころにはあたりは暗く、繁華街の方向からギラついたネオンの明かりがじんわりと滲んでいた。  バイクに背をあずけ、下ろしたリュックからスマホを取り出す。何件か通知が入っていた。  うち2件は(さくら)からの催促のメッセージだ。俺はなによりも先にそれを確認して、すぐに彼女へ返信を打った。 『いまバイト終わった。  了解でーす。  愛してるよ!』  送信をすると、1分もたたないで、 『きもい』  辛辣なひとことが画面下部からあらわれた。気持ち悪いなら無視すればいいのに、律儀に返すところがかわいらしかった。  桜とのやりとりは、たとえるなら栄養剤だ。疲労で固まった脳内を、言葉の雫一滴で解く。本人に言ったらまた気持ち悪がられそうだが。  そういえば最近会ってないな。寂しい。元気だろうか? もっとも彼女にかぎって、俺の心配を反故にするような生活は、けっして送っていないだろう。  さて……とほかのメッセージを確認する。大学からの業務連絡、迷惑メール……。 「ん?」  たまった通知を遡っていると、見知らぬアドレスからのメールに目がとまった。  そのアドレスは意味のない英語の羅列でできていた。ただ件名が「トラちゃんへ」とピンポインに俺を示している。  誰だこれ? 一応メールを開く前から捨てる真似はせず、しかし悪質なチェンメだったら嫌だなぁ、と渋々文面を開いた。 『トラちゃんへ  突然メールを送ったことで、びっくりさせてしまったらごめんなさい。  まえに借りていたものを返したいので、明日会えませんか?  昼休みに、旧校舎で待っています。  犬塚(いぬづか) 名雪」  予想もしなかった文面に、びっくりした。  どうして名雪が俺のメルアドを知っているのだろうか。連絡先すら教えなかったはずだ。  せっかちな名雪にしては、やけに丁寧な文章を読んで首をひねる。  犬塚名雪はひとつ上の先輩で、南峠の美術部に入部している。といっても、サークルにはほとんど顔を出していないらしい。いわゆる幽霊部員だ。とりあえず席だけは入れている状態。  名雪とは、俺がかけもちでバイトしている、創作居酒屋で出会った。たしか一週間前の木曜のことだ。  長い茶髪をポニーテールにした名雪は、他の店員そっちのけで、俺にばかりオーダーを取らせた。カルーアミルクを3杯頼んだところで、 「ねえ店員さんって、南峠の子でしょ?」  うわさになってるよーと名雪は、サバンナでうろつく肉食獣のように目をほそめた。となりに座っていた彼女の友人らしき女性が、困ったように両肩を縮める。 「お姉さんたちも南峠っすか?」 「うんそう! 二年」 「俺は一年でーす。ところでうわさって……?」 「あはは、すっごいイケメン君が入学してきたって、女子のあいだで話題もちきりなの」 「えー? そんなこと聞いたことないっすよ! でも……うーん、恐縮です」  あたまをかいて笑うと、名雪は髪をかきあげた。  かわいい! と俺の腕をつかんで、彼氏と別れたばかりだと聞いてもいないことをペラペラ教えてくれた。  そして、ずるずると雪崩のように迫る彼女からは逃げられず、その日のうちに、お持ち帰りしてしまった。  ただ名雪とはその一回きり。以来学内で会うこともなかった。  それはなにも彼女が気にくわなかった、というわけではない。俺は誰とも付き合わないし、一度肉体関係を築いた相手でも、その後の交友は意図して続けないようにしていた。  セックスだって、同じ相手と二度はしない。だから俺に本気になってくれる相手ではなく、名雪のように遊び感覚の相手を選んでいる。  後腐れがなく、ただ一晩寂しさを紛らわせてくれるような相手。    ――しかし名雪の場合、ひとつ困ったことがあった。  おそらく俺がホテルのシャワーを浴びているとき。彼女は俺の鞄から、とあるものを盗んだ……いや、彼女のメールを読むに、拝借した、のだ。  鞄からそれがなくなっていることに気づいたのは、帰宅してからだ。すぐに、ベッドを共にした名雪が持っていったに違いないとわかった。  俺の鞄から私物を抜き出した理由は、なんの気まぐれだろうか。……おそらくはただのおふざけだ。  彼女の根深い部分を把握するのに、俺たちが過ごした時間はあまりに短い。だけどその一瞬で過ぎ去った逢瀬でもわかるほどに、名雪のノリは軽かった。  俺にとって、一度の関係を、こうやって長引かせるのは忍びなかった。スルーできればいい。でも、勝手に持ち出された物には、どうしても返してもらう必要があった。  どうしたものかとちょうど悩んでいたところだ。だからこのメールは、うん、グッドタイミング。 「……けど、なんでよりによって幽霊棟(ゆうれいとう)なんだよ」  指定された「旧校舎」の文字が、ぐにゃりと画面から浮かんで、かげろうのように揺らめくイメージが湧いた。  もちろんそんなのは錯覚だ。  けれども幽霊棟と呼ばれる旧校舎には、そんな奇妙な印象を抱かせるだけの、(いわ)くがあった。

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