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第20話 流転 2

「子どもの思い入れとは、身勝手で切ないものだな」  心の奥の大切な場所で、幼子は今も宝物の箱を抱えている。花は咲く日を待っている。  たとえ目の前の存在が、凍る言葉しか告げなくても。自分の立っている場所が、一面の吹雪だったとしても。 「⋯⋯殿下。⋯⋯アルベルト様」  ヴァンテルの口から自分の名が呼ばれた。 「お前は、私の名を呼ぶ時だけは昔と変わらない」  どうしてそんなに優しく名を呼ぶのだろう。  まるで、勘違いしてしまいそうになる。あの頃のように、自分が今でも大切にされていると。  目を上げれば、湖の色を(たた)えた青い瞳は、食い入るように私を見ていた。 「ここは⋯⋯貴方の為の宮殿です」 「私の?」  ヴァンテルは(ひざまず)き、私の目を見た。 「レーフェルトは全ての改修を終えています。この先数十年の間、真冬の豪雪にも吹雪にも耐えるでしょう。ご不自由はさせません。どうか御身を(いたわ)られて、こちらで安らいでいただきたいのです」 「⋯⋯それが、お前の役に立つということか?」  ヴァンテルの瞳に、一瞬、去来したものがあった。彼は何も言わず、静かに頷いた。  頭の奥が熱くなり、白く明滅する。  それがお前の望みなのか。静かに、一人きりでこの美しい鳥籠の中にいることが。 「私が役に立つことは、それしかないのか」 「殿下⋯⋯」  そうだとも、違うとも、返っては来なかった。  本当は、もっと聞きたいことも話したいこともあった。しかし、どれも、ひとつも口に乗せることが出来ない。  耳の奥に響くのは、吹きつける風の音なのか。それとも幼い子どもの泣き声なのか。  寒さに震えるこの体を、今すぐ誰かに抱きしめてほしかった。  ライエンは、隠し事が出来ない男だった。  裏表がないことは美徳の一つかもしれないが、政治に向いているとは言い難い。 「私は元々、交渉ごとに向かないのですよ。相手にものを勧める時に、良い点を言うのは当たり前ですが、足りぬ点まで言うのは要らぬ世話でしょう?」 「⋯⋯だから、トベルクが世話をするんだな」 「私は世話になるつもりはないのですが、トベルク様はいつも、お前ひとりで外に出すわけにはいかぬと仰るのです。おかげで、今回の折衝では、私はろくに発言を許されませんでした」  明るく話す言葉には、何の屈託もない。十も年上のトベルクは、ライエンを実の弟のように可愛がっていた。  積年の懸案事項だった国境の交渉は、二人の尽力で成果を得た。  トベルクの交渉力とライエンの持つ騎士団は、代替わりしたばかりの隣国に脅威となった。廃嫡騒ぎが届いていたなら別の結果もあったかもしれない。しかし、王太子を喪っても第二王子が無事に立つロサーナは盤石に見え、隣国は不利な条約を飲み込んだ。 「⋯⋯ふふ。ライエンは、詐欺師にはなれないな」 「おや。仰いますね、殿下。正直者は馬鹿を見ると申しますが、性分と言うものは早々変わりはしないのです」  ライエンは、もうヴァンテルにばれたのだから、と堂々とを満喫していた。凍宮内を細部まで巡って感嘆の声を上げる。 「殿下、私はレーフェルトを訪れたことは数えるほどしかありません。しかし、ここは思ったよりもずっと快適で素晴らしい。造営時にも勝る金をかけて修繕したとの噂は本当ですね。外にさえ出なければ、王都と変わらぬ生活が送れる」  ライエンの言ったとおりだった。  凍宮の中は快適で、王宮と比べても何の遜色もなかった。山の様な本を備えた書庫もあった。貴重な蔵書たちの一端を読むだけで、自分の一生などすぐに終わってしまいそうだった。

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