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第38話 林檎 3

「とった実は、すぐに食べるものです。こうやって」  ヴァンテルは、私が持っていた晶林檎をひょいと指で摘まんで、外套の端で軽くこすった。艶やかな林檎を口元に向けると、かりりと齧る。林檎の断面は白く、爽やかな香りが辺りに満ちた。 「あ⋯⋯! あっ!!」 「どうか?」 「わ、私の林檎!」  ヴァンテルは大きく目を見開いた後、噴き出すのを必死で堪えていた。 「し、失礼を。そこにたくさんあるものですから」  彼が指差した先には、たくさんの晶林檎が枝一杯についていた。  でも、私の目にはヴァンテルが持っていた林檎の欠片しか目に入らない。 「⋯⋯お前がくれた実は、それだけだろう!」  泣きたいぐらい口惜しい気持ちになって叫んだ。 「すみません。もう口にしてしまいましたので、また明日、お贈りします」 「⋯⋯でいい」 「えっ?」 「それでいい!」  ヴァンテルの手を掴んで、指ごとぱくりと噛みついた。  舌が指先に触れ、林檎の欠片が口の中に落ちた。濃厚な甘みに爽やかな酸味で口の中がいっぱいになる。  ヴァンテルの眉がわずかに寄せられ、小さく声が漏れた。指先を私の口からすぐに離した彼は、呆然としている。 「⋯⋯美味しい」  シャリシャリとした果肉からは果汁が溢れてきた。  わずかに唇の端から零れた果汁をそっと親指で舐めとる。  ヴァンテルと目が合った瞬間、強い力で右腕を取られた。  青く深い瞳の中に揺らめくのは、獣のように激しい欲望の色だ。(あご)を指で捕らえられて、唇が重なったかと思うと、舌が忍び込んでくる。 「んっ! んッ⋯⋯ふ」  口の中に、甘さが溶けあっていく。爽やかな果実の甘さが、途端に淫靡な香りを放つ。  どちらがどちらの唇を貪っているのだろう。  絡めた舌が熱を持ち、頭の奥が蕩けて何も考えられなかった。  握られた腕の強さが、まるで求められている強さのように思える。  自分からそろりと舌を追いかければ、あっという間に吸い上げられる。  逞しい腕に、骨が折れそうだと思うほど強く抱きしめられた。  どうやって息をしたらいいのかわからない。  くたりと体から力が抜けたのに気づいたヴァンテルが、腕から力を抜き、唇を離した。  厚い胸に頬をすりよせると、瞼にそっと口づけが降ってくる。  腕の中が温かくて、たまらなく気持ちが良くて、ぴたりと体を寄せたままでいた。  溢れる心を止めるのは難しくて、思わず小さく名を呟いていた。 「⋯⋯クリス」  触れていた体が、一瞬硬く強張った。  ⋯⋯名を呼んだら、いけなかっただろうか。  耳の奥で、吹きすさぶ吹雪の音が聞こえた。  たった一人、一面の雪の中に必死で立つ幻が見える。  ヴァンテルの服を、両手できゅっと掴んだ。  何も言わず、うつむいたヴァンテルが、もう一度強く私を抱き締めた。  かすかにため息が零れたのを感じて、顔を上げることができなかった。  瞳の中に、同情や(あざけ)りを見つけてしまったら、この心は耐えられない。  ──少しだけでいい。  今だけは、自分がこの男にとって大切な存在なのだと思いたかった。 「⋯⋯殿下」  ひどく優しい声が響いた。 「あまり、可愛らしい真似をされると困ります」 「困る⋯⋯?」  問い返そうとした時に、足音が聞こえた。

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