39 / 152
第38話 林檎 3
「とった実は、すぐに食べるものです。こうやって」
ヴァンテルは、私が持っていた晶林檎をひょいと指で摘まんで、外套の端で軽くこすった。艶やかな林檎を口元に向けると、かりりと齧る。林檎の断面は白く、爽やかな香りが辺りに満ちた。
「あ⋯⋯! あっ!!」
「どうか?」
「わ、私の林檎!」
ヴァンテルは大きく目を見開いた後、噴き出すのを必死で堪えていた。
「し、失礼を。そこにたくさんあるものですから」
彼が指差した先には、たくさんの晶林檎が枝一杯についていた。
でも、私の目にはヴァンテルが持っていた林檎の欠片しか目に入らない。
「⋯⋯お前がくれた実は、それだけだろう!」
泣きたいぐらい口惜しい気持ちになって叫んだ。
「すみません。もう口にしてしまいましたので、また明日、お贈りします」
「⋯⋯でいい」
「えっ?」
「それでいい!」
ヴァンテルの手を掴んで、指ごとぱくりと噛みついた。
舌が指先に触れ、林檎の欠片が口の中に落ちた。濃厚な甘みに爽やかな酸味で口の中がいっぱいになる。
ヴァンテルの眉がわずかに寄せられ、小さく声が漏れた。指先を私の口からすぐに離した彼は、呆然としている。
「⋯⋯美味しい」
シャリシャリとした果肉からは果汁が溢れてきた。
わずかに唇の端から零れた果汁をそっと親指で舐めとる。
ヴァンテルと目が合った瞬間、強い力で右腕を取られた。
青く深い瞳の中に揺らめくのは、獣のように激しい欲望の色だ。顎 を指で捕らえられて、唇が重なったかと思うと、舌が忍び込んでくる。
「んっ! んッ⋯⋯ふ」
口の中に、甘さが溶けあっていく。爽やかな果実の甘さが、途端に淫靡な香りを放つ。
どちらがどちらの唇を貪っているのだろう。
絡めた舌が熱を持ち、頭の奥が蕩けて何も考えられなかった。
握られた腕の強さが、まるで求められている強さのように思える。
自分からそろりと舌を追いかければ、あっという間に吸い上げられる。
逞しい腕に、骨が折れそうだと思うほど強く抱きしめられた。
どうやって息をしたらいいのかわからない。
くたりと体から力が抜けたのに気づいたヴァンテルが、腕から力を抜き、唇を離した。
厚い胸に頬をすりよせると、瞼にそっと口づけが降ってくる。
腕の中が温かくて、たまらなく気持ちが良くて、ぴたりと体を寄せたままでいた。
溢れる心を止めるのは難しくて、思わず小さく名を呟いていた。
「⋯⋯クリス」
触れていた体が、一瞬硬く強張った。
⋯⋯名を呼んだら、いけなかっただろうか。
耳の奥で、吹きすさぶ吹雪の音が聞こえた。
たった一人、一面の雪の中に必死で立つ幻が見える。
ヴァンテルの服を、両手できゅっと掴んだ。
何も言わず、うつむいたヴァンテルが、もう一度強く私を抱き締めた。
かすかにため息が零れたのを感じて、顔を上げることができなかった。
瞳の中に、同情や嘲 りを見つけてしまったら、この心は耐えられない。
──少しだけでいい。
今だけは、自分がこの男にとって大切な存在なのだと思いたかった。
「⋯⋯殿下」
ひどく優しい声が響いた。
「あまり、可愛らしい真似をされると困ります」
「困る⋯⋯?」
問い返そうとした時に、足音が聞こえた。
ともだちにシェアしよう!