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第46話 灯火 3

 人の住まなくなった宮は、閑散として寂しげだった。  部屋の中には何も残されていなかったが、私は壁に掛かっていた一枚の絵を外した。  絵の後ろには、小さな隠し扉がある。 「えっ! なんですか、それ?」  ライエンが、驚きの声を上げた。   「いつからあるのかは、わからないが⋯⋯。子どもの頃、絵をよく見ようと思って、この扉の存在に気づいたんだ。開けた時には、中には何も入ってはいなかった」  祖母の皇太后が大事なものを入れていたのか、その前からあったのか。鍵もかかっていない扉は簡単に開いた。  大人の肩ほどの幅に、指先から前腕が入るぐらいの奥行きだ。高さは手の平一つ分だった。私はその中に、たった一つだけ、大切なものを入れていた。 「よかった。⋯⋯あった」  異国の言葉で綴られた、泉に守られた花の本。  幼い日の自分が、ずっと大切に眺めた本の(ページ)。  扉の奥から取り出して、そっと触れる。何度も何度も(めく)って角の丸くなった本は、在りし日の自分を浮かび上がらせた。 「⋯⋯殿下の大切なものだったんですね。どうして、東の宮殿にお持ちにならなかったんです?」 「ここには、大切な思い出がたくさんあったから。なんだかその思い出を守ってくれるような気がしたんだ」  東宮では、長椅子で仮眠をとりながら必死の毎日だった。時折、小宮殿でのことを思い出した。 「東の宮では学ぶことが多くて、いつも余裕がなかった。エーリヒ達には、たくさん助けてもらっていたけれど⋯⋯」 「殿下⋯⋯」  陽射しは明るく、花々は咲き誇っている。私は、昔懐かしく過ごした『隠れ家』に向かった。  庭師は変わらずに手入れを続けてくれていたようで、庭はどこも美しいままだ。  幼い頃のように、楽園は存在していた。  小さな噴水は以前より古びていたが趣深く、細い水を光の中に放っている。周りには、青々と芝生が生えていた。   思わず、履いていた靴も上着も脱いで、裸足のまま大地に触れる。芝生の触り心地が嬉しくて、まるで踊りだしたいような気持ちだった。   芝生の上でくるくると回ると、一緒に来ていたライエンの戸惑う声が聞こえた。 「えっと。殿下、あの、その⋯⋯」  私は、はっとする。素足を見せるのは、素肌を見せるのと同じことだ。物を知らない子どもの様な真似をしたことに恥ずかしさが募る。 「⋯⋯すまないが、見なかったことにしてほしい」  ライエンは真っ赤な顔をして頷いた。彼は咳払いをしながら目を逸らした。 「少し、庭園を巡ってきます⋯⋯」  ライエンは私に背を向けて、茂みの向こうに姿を消した。  私は本を抱えたまま、芝生の上に寝転がった。どこからか、蝶がひらひらと飛んでくる。  幼い時も、こうして自分の相手をしてくれたものがいた。小鳥に虫たち、小さな森の生き物たち。こうしていると、時が戻せそうな気がする。  あの頃は、まだ何も知らなった。  ただ、光の中で、自由に過ごすことができたのだ。  ──さびしいと言う言葉すらも知らずに。  目をつぶって、少しだけ微睡(まどろ)んだ。小道から、かさりと葉がこすれる音が聞こえる。 「⋯⋯エーリヒ?」  傍らに本を置き、起き上がろうとした時だった。  見惚れてしまうほど美しい男が立っていた。  光の中に銀色の髪がきらめいて、あの日見た少年より、ずっと成長している。  凛々しい眉も通った鼻筋も変わらないのに、彼の青い瞳はいつの間にか、ひどく冷たい輝きに変わっている。

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