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第47話 灯火 4

「なぜ、こんなところに。しかも、そんなお姿で」  地の底から湧いたような声だった。  ヴァンテルがつかつかと歩いてきて屈み込み、腕を掴む。 「⋯⋯部屋にいらっしゃるようにと、言ったはずです。ライエンに連れていかれたと聞いて、どんなに驚いたか!」  怒りに燃えたヴァンテルが怖かった。必死で声を振り絞る。 「ライエンは、部屋に閉じ込められている私を気の毒に思って、連れ出してくれただけだ」 「挙句の果てに、こんなところにいらっしゃるのですか? 凍宮にいるはずの貴方が宮中にいると、あちこちで騒ぎになりはじめています」 「そんな⋯⋯。騒ぎにするつもりなんてなかった。ライエンだって好意でしてくれたことだ」  ヴァンテルの顔色が変わる。 「⋯⋯ライエンを庇うのですか?」 「誰も、そんなことは言ってない!」  なんで、こんなことになるのだろう。喧嘩なんかしたいわけじゃない。小宮殿で、懐かしい思い出に浸ってみたかっただけなのに。  青い青い瞳を見ていると、あの頃と変わらない気がするのに。  掴まれた腕の痛みに眉を顰めると、ヴァンテルの力が緩む。  私は咄嗟にヴァンテルの手を振り払い、両手で脇に置いた本を抱えた。腕の中の本を見て、彼は瞳を見開いた。 「その本は⋯⋯」 「これは、私のものだ」  ごうっと、一陣の風が吹いた。  木々が梢を揺らし、花々が花弁を散らす。正面からの突風に負けないぐらい大声で叫んだ。 「この本だけは私のものだ! 他の何を失くしても、これだけはお前にも渡さない!!」  胸に本を抱きしめてヴァンテルに叫ぶ。 「お前があの日、私にくれた。例え、お前の気持ちが変わってしまっても、私を嫌っていても、思い出だけは私のものだ。それを奪うことは許さない!」  ずっとずっと大事にしていた。この本も、小宮殿での日々も。  どんな時も心の中に灯火をくれた本だ。いつだって、この本を開けば温かな想いと共に生きていける。  これだけは。 「⋯⋯殿下」  呆然としたヴァンテルの瞳が私を捉えた。  目の前の男から、怒りは嘘のように消え、瞳には深い動揺が広がった。つりあがっていた眉は下がり、瞳は穏やかな色を取り戻す。ヴァンテルは長い睫毛を瞬いて、小さく言葉を吐きだした。 「貴方がライエンに連れていかれたと聞いて、とても正気ではいられなかった」  ──何を言っているのだろう。 「⋯⋯ライエンが貴方を抱きかかえ、貴方は親し気に微笑んで去ったと、衛兵たちが知らせに来ました。衛兵と騎士たちを四方に走らせて追ってきたけれど、宮中にはいらっしゃらない。ライエンの居室にもです。小宮殿の入り口にライエンの騎士たちがいると聞いて、もしやと小道を来たのです」  ヴァンテルは、私の姿に目を走らせた。 「そうしたら、貴方はそんな恰好でいらっしゃる。取り乱したのは私の落ち度です。申し訳ありません」  私は急に恥ずかしくなった。小宮殿は暖かく誰もいなかったので、気軽な恰好でいることが多かった。上着をきっちり着込まず、靴を脱ぐ心地よさを、芝生を見た途端に思い出したのだ。  ヴァンテルは、本を抱える私の腕を見た。くっきりと赤く痕がついている。ヴァンテルの手が触れようとした瞬間、体がびくりと震えた。  ヴァンテルは眉根を寄せ、瞳を伏せた。 「その本は、貴方のものです。殿下に差し上げるために持ってきた、あの日から。取り上げる気など毛頭ありません。今のはただ、手の様子を見たかっただけです」  ああ、そうだったのか。ほっと息を吐いて、体の力を抜いた。  ヴァンテルは、指先で私の手に軽く触れる。びりびりと痛みが走った。 「──ッ!」 「冷やさなければ腫れます。手当てしましょう」 「いや、いい。後で、ライエンのところで⋯⋯」  私の手に触れたまま、ヴァンテルは何も言わなかった。見上げると、彫像のように美しい顔は、不安と迷いに満ちていた。そんな顔を今まで一度も見たことがない。 「⋯⋯全てを話したら、貴方は私の元にいてくださるのでしょうか」 「ヴァンテル?」 「貴方のことを嫌うはずなどないと、わかってくださるのでしょうか」 「え?  嫌って⋯⋯ない?」  どうしてそんなに傷ついた瞳をしているのか。  わからぬままに、ヴァンテルの瞳から目を離すことが出来なかった。

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