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第60話 吐露 1

   自分から人の唇に触れたのは、初めてだった。  すぐに離れたのに、触れた時の柔らかさが、体温が、こんなにも心を震わせる。高鳴るばかりの胸の音は、相手に聞こえてしまわないのだろうか。今すぐここから逃げ出したいのに、足は地に張り付いたままだ。  ヴァンテルは呆然として、私を見ている。  すぐに触れられる距離にいるのに、私たちはどちらも動けなかった。  喉の奥から絞り出すように、声を放つ。 「⋯⋯クリス。お前に会えて、よかった」 「殿下! 私は貴方にひどい事ばかりしてきました。理由はどうあれ、貴方を貶め、汚名を着せて、最果ての地に閉じ込めた事実は変わらない。貴方に許されるとは思っていません。永遠に憎まれても構わない」  私は首を振った。 「もう何も知らないままじゃない。事実を知って、どうしてお前を憎むことが出来る? ⋯⋯ずっと知りたかったのは、お前の気持ちだった。私のことを想っていてくれて嬉しい」  ヴァンテルだって辛かっただろう。ずっと一人で、全てを抱えて。  誰にも心の内を知られず、ただ一人で闇の中に立ち続ける。それがどんなに孤独な事か、私にはわかる。 「だから、もういいんだ。私は元々、国王の器ではない。王太子と呼ばれ、人々の為にと言われても、実感なんてわかなかった。私が努力したのは、自分の為ですらない。クリスが喜んでくれるなら。そう思ったからだ」  父のように、信念をもって国の将来を考えたことなどない。  兄のように、己を信じて生きてきたわけでもない。  私の歩む日々の先にいたのは、お前だけだった。  東の宮殿で再会した時。兄を喪った悲しみの中でも、ヴァンテルの姿はすぐに分かった。  優し気な面影は精悍に変わり、知性と凛々しさを身に纏っている。  威風堂々として王者の風格すら持っているのに、優しさも細やかな気遣いも、少しも変わってはいなかった。  寂しくないとは言わない。  この先、いつも夢に見るだろう。お前の姿を、共に過ごした懐かしい日々を。  言葉を交わす度にどれほどの喜びがあったか。きっと、お前が知ることはないだろう。  それでも。  いつまでも。 「ずっと、凍宮からお前の幸せを願っている」 「⋯⋯どうして」  ヴァンテルは、ゆっくりと口を開いた。 「どうして、そんなことを仰るのです」 「⋯⋯クリス?」 「お前を永遠に憎んでいると、そう言われるのならわかります。けれど貴方は、私の幸せを望むと仰る。このフロイデンで、二度と貴方に会わずに生きていく? そんなことが⋯⋯、私の幸せだと仰るのですか?」  ヴァンテルの顔は蒼白になり、いつもの冷静さは微塵もなかった。 「クリスには、守る者も、待っている者もいる。クリスのいるべき場所は、このフロイデンの王宮だ。玉座に立つ者と共に、光の中を歩くことこそがふさわしい。クリスたちがいれば、ロサーナは沈まぬ船になる」  ぎり、と奥歯を噛み締める音が聞こえる。 「⋯⋯ロサーナの明日など、知ったことではない!」  ヴァンテルの怒りを込めた瞳と声に、私は息を呑んだ。国を導く者の言葉とは、とても思えなかった。 「クリス? 何を⋯⋯」 「私が筆頭になったのは、貴方に会う為です。ロサーナの為などではない! 貴方の兄君に刃向かう力が欲しかっただけです!!」 「⋯⋯刃向かう? 兄に?」 「そうです。貴方を小宮殿から出して、自由にしたかった。貴方がご自分の足で歩き、行きたい場所へ自由に羽ばたけるように。そして、その気持ちと同じくらい、私が貴方に会いたかった⋯⋯」  会いたい。  ずっと、そう思っていた。日々を重ねても、思いは消えなかった。 「亡き王太子が玉座に登った時に、力がなければ、貴方に会えないかもしれない。その為に必死で力をつけた。⋯⋯なのに! その貴方が、私から離れると仰る!!」  私は思わず、ヴァンテルに向かって叫んだ。 「私は、すぐに死ぬかもしれないのに! そんな人間が、どうしてお前と一緒にいられる? 何もできないのに、どうして⋯⋯」  同じ道は歩めない。  まっすぐに輝く未来がある者と。  すぐに終わりを迎えるかもしれない者とでは。  

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