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第100話 合図 4

   コンコン。  背中を当てている扉を叩く音がした。  コンコン。  ⋯⋯誰?  一定の間を置いて、扉を続けて二つ叩く音が繰り返される。  軽くはっきりとしたその音は、在りし日の思い出を呼び覚ます。  小宮殿でヴァンテルが来ると知った日に、こっそり隠れて待っていた。  あんまり上手に衣装箱に隠れすぎて、少しも見つけてもらえなかった。  悲しくなって泣き出した私に駆け寄って、ヴァンテルは約束したのだ。 『⋯⋯今度は必ず殿下を見つけますよ。合図を決めましょう』 『あいず?』  コンコン、と二つ叩く音がしたら、“いますか?”  コン、と一つだったら、“はい” 『殿下が隠れた場所を私が叩いてお聞きしたら、殿下も叩いてお答えください』 『わかった! じゃあね、“いいえ”は?』 『“いいえ”も、必要なのですか?』  ただそれだけの単純な遊び。  もっと回数を足して言葉をいくつも作ったけれど、ほとんど覚えていない。  コンコン(いますか?)  諦めずに扉を叩く音に返事をする。  コン(はい)  少しして、コンコンコン。3回続くのは、“開けてください”  “いいえ”は、コ・コン。軽く叩いた後に、強く叩く。  コ・コンと叩けば、返ってきたのは4回の連続音。  ⋯⋯4回叩き続けるのは何だっただろう? 『⋯⋯じゃあね、4回は何にする?』 『そうですね、よく使う言葉にしましょう』 『よく使うのはねえ⋯⋯』  4回続いた後に、コンコンコン(開けてください)  コン(はい)、と返すと扉が開いた。  ヴァンテルが眉を下げながら、安心したように微笑んでいる。 「ようやく、開けてくださった」 「ずいぶん昔のやりかたを覚えていたものだな」 「そう仰る殿下だって、覚えていてくださったではないですか」 「⋯⋯4回は思い出すのに時間がかかった」  ヴァンテルは、おかしそうに笑った。 「殿下がお考えになったのに」 「⋯⋯あれは、子どもの時だろう! 成長してからも使われるなんて思わなかったんだ」  頬が熱くなって、少し口が尖ったのが分かる。まるで本当に小さな子どもみたいだ。恥ずかしいと思っていると、ヴァンテルの手が私の髪を撫でた。 「私は忘れません。あの時の貴方が、とても嬉しそうで可愛らしかったから」 『4回はねえ。“好き”だよ』  小宮殿でいつも笑っていた王子を思い出したのか、ヴァンテルが私を眩しそうに見つめた。 「合図でそんな言葉を使う必要があるかと思いましたが、貴方はよくお使いになった」 「⋯⋯だんだん恥ずかしくなってきた」 「貴方の周りは、たくさんのお好きなもので満ちていたのでしょう」  兄様が好き。  本が好き。  花が好き。  クリスは、大好き。  コンコンコンコン(好き)  宮殿の柱で。  露台の大理石で。  衣装箱の蓋にさえ、優しい音が響く。  幼い王子の小さな手が、楽しそうに4回、愛の音を鳴らす。 「私は、貴方が嬉しそうにあちこちを叩く姿が好きでした。最後には、何の為の合図かわからなくなりましたが」  私はムッとした顔のまま、ヴァンテルの胸を掴んだ。  トントントントン。 「服の上からでは、うまく鳴らない」 「⋯⋯しかと、この胸に届きました」  握りしめた私の手に、ヴァンテルはこれ以上ないくらい優しく口づけを落とす。  疲れ切っているだろうに、私を捜し回って、愛の言葉を囁いて。  逞しい腕の中に、まるで二つとない宝を抱きしめるように優しく包み込む。それがひどく嬉しくて、同じくらい苦しい。キリキリと痛む心が、胸の奥に溜まっていた(おり)を吐き出す。 「クリス⋯⋯。お前の気持ちは、本当に愛情なんだろうか。私の中にある生きたいと願う欲望が、お前を惑わせているだけなのかもしれない」  投げつけた言葉は、相手も自分自身も痛めつける毒だ。 「トベルクは言った。王家に伝わる血が、生きるための本能が、周囲に愛情だと錯覚させるのだと。お前が私を想ってくれるのは⋯⋯」  ヴァンテルは、羽毛のように軽い口づけで私の言葉を止めた。 「⋯⋯人がどんな名をつけて呼ぶのかは知りません。私の心は私が決めます。貴方だけが、いつでも私の心を照らしてくださる」  まるであやすように囁きながら、背に触れた指先が4回。  少しも変わらぬ愛を告げた。

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