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第113話 恋夜 4

   ヴァンテルはその後、王宮に向けて早馬を走らせた。  宮中伯及び筆頭を辞することを書面にしたため、国王と宰相宛てに送ったのだ。 「暫く宮中は混乱が続くでしょうが、少しずつ収まるでしょう。私はただの北方を守る貴族に戻ります。我が領地は鉱物の産地であり、雪が溶ければ恵み豊かな土地でもある。この先も暮らしには困りません」  ヴァンテルの言う通り、広大な北の大地は多くの資源を秘めている。問題とするのは彼ではなく、王宮の者たちだ。当然といえば当然だが、すぐに了承はされなかった。  父王と宰相の連名で、宮中に今一度戻り事態の説明をするようにとの勅書が来た。 「⋯⋯やはり、簡単にはいかないな」  勅使が凍宮に訪れた後、私はヴァンテルの報告を聞いていた。 「それは、体面上わざと送られてきたものです。アルベルト様、こちらを」 「これは?」 「公の書状とは別に、親書が参りました。どうぞご覧ください」  何も飾りもない一通の書状が差し出される。  書かれていたのは短文で、ところどころかすれ、文字は曲がっている。そして最後にあったのは、父王エーデルの徽章(きしょう)の印だった。  手紙を握ったまま声もない私に、ヴァンテルの言葉が静かに響く。 「⋯⋯宮中伯を辞すことを認める、とあります。そして、殿下を頼む、と」  父上⋯⋯。  ぱた、ぱたと書状に涙が落ちる。慌てて目をこすっても、すぐに止まりはしなかった。  父はどんな気持ちでこれを書いたのだろう。 「今後、ロサーナの王太子には、エルンスト・ライエン元公爵が就かれることが決まりました」 「⋯⋯叔父上は、お引き受けくださったのか」 「はい。ようやく、宮中伯たちの説得に応じてくださったようです」 「万が一にも王位継承争いの舞台に立つ気はないと、ライエン公爵家の籍に入られた方だ。よく承知してくださった」  ライエン元公爵は、父王エーデルの末弟で、エーリヒの父だ。叔父は温厚で家臣からの信頼も厚い。トベルクは明言しなかったが、叔父を王太子に立てたいと思っていたことは想像に難くない。 「本当に、一緒にいられる⋯⋯?」 「今度こそ、ずっと。これで私は、二度と凍宮に向かって走らずにすむ」  私が怪訝な顔をすると、ヴァンテルは笑った。 「貴方がこちらに到着された時も、ライエンがやってきた時も。万一、貴方に何かあったらと必死で馬を駆りました」 「領地に用があるついでに凍宮に来たんじゃ⋯⋯」 「逆です。貴方の様子が気になって、領地の訪問の方がついでです。ホーデンには、殿下のお姿を見なくては、夜も日も明けないのかと呆れられました」  ⋯⋯考えつきもしなかった。 「もしかして、ライエンにあんなに冷たかったのは⋯⋯」 「連れ去られるかと思ったからです。それに、アルベルト様は、いつだってあの男に優しすぎる」  不機嫌な様子を隠しもせずに、ヴァンテルは呟く。  私は以前、氷塊よりも冷たい言葉を投げつけてきた男をじっと見つめた。  あれは真冬の吹雪の頃だ。もうじき北方地方には、遅い春が訪れる。 「⋯⋯クリスは、本当にずっと、私のことを想っていてくれたんだな」 「アルベルト様?」 「共に生きる道を選んでくれて⋯⋯ありがとう」 「貴方は、私にとってただ一人の方です」  優しく微笑む姿が何よりも眩しく思えた。  父からの手紙を胸に、私たちはそっと口づけを交わした。

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