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父王の遺言 2

「その⋯⋯、其方の話を聞きたいんだが。なぜ、来られないんだ?」  私が芝生に座ると、父も隣に座る。綺麗なマントが汚れると言えば、気にしなくていいと言う。父上は乳母に怒られないの?と聞けば、楽しそうに笑った。  私はクリスのことを話した。父は頷きながら、ずっと静かに聞いていた。 「アルベルトは、⋯⋯クリストフ・ヴァンテルのことが好きなのだな」 「うん!」  ああ、そうだ、と思った。私は部屋の中に戻って、一冊の絵本を持ってきた。ヴァンテルがくれた薔薇と泉の本だ。何度も読んでもらった本の文章を、私は全て覚えていた。父は興味深そうに絵本を見る。 「他国の言葉だな。読めるのか?」 「ううん。でも、クリスが読んでくれたから覚えてる。⋯⋯父上もどんな話か知りたい?」 「⋯⋯アルベルトが読んでくれるのか?」 「うん!」  あの時、父は私が読む物語を黙って聞いてくれた。読み終えると、微笑んでありがとうと言う。私は嬉しくなって父と顔を見合わせて笑った。  子どもの私は知らなかった。父は語学が堪能な王で、あの本の中身はすぐに理解できたことを。しかし、彼は何も言わずに子どもの言葉に耳を傾けてくれた。  父は静かに立ち上がり、マントに付いた芝をはらう。それが帰る合図なのだと子どもにも理解できた。  また来てほしい、と言うことは出来なかった。  父も、また来る、とは言わなかった。  私が手を伸ばすと、父は私の手を握る。大人の男にしては細い指だった。私は久しぶりに人と手を繋ぐのが嬉しくて、ぎゅっと握り返した。あたたかな温もりに飢えていた心に、父の手の温もりが伝わってくる。私たちは手を繋ぎ、小宮殿の終わりまで、並んで小道を歩いた。  いくつか他愛ない話をしたのだと思う。 「私は其方の側にいることができなかった。いつか、其方に⋯⋯」  父が言いかけてやめた言葉に首を捻ると、見上げた瞳の色はその上に広がる空と同じ色だった。 「父上! 父上の目の色はフロイデンの空と同じ!」 「⋯⋯そうだな。アルベルト、其方の瞳も同じ色だ」  私が笑うと父も微笑む。  父は一度だけ私を腕の中に抱きしめて、元気で、と言った。  父が歩き始めて少しした頃、何人もの騎士が後を追うのが見えた。彼らの姿の向こうに父の姿が見え隠れする。父は一度も振り返らず、私は何も見えなくなるまで見送った。追いかけて行こうとは思わなかった。  ただ闇雲に父の後を追うほど幼くはなく、まるでひと時の夢を見ているようだった。  あの日、小宮殿に訪ねてきた父の真意を知ることはもはや出来ない。  庭に出て私を探していた乳母が、お茶を淹れながらぽつりと漏らした。今日は、父の日なのだと。臣民が国の父である王に、第一に感謝を捧げる日なのだと言う。私は首を傾げた。 「⋯⋯それは、どんなことをする日なの? 父上が子どもに会いに来る日ってこと?」 「まあ。殿下、申し訳ありません。この口は余計なことを申しました」  乳母は父母にろくに会えぬ王子を憐れんで、涙ぐんで詫びた。私は父が本当に会いに来たのだと、乳母に言うことが出来なかった。何となく、信じてもらえないような気がしたからだ。  なぜ、あの日のことをすっかり忘れていたのだろう。  幼い手を握った在りし日の白い指の温もりが、仄かに思い出された。

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