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第4話

   ◆  庇から雨水が落ちる音でカナタは目を覚ました。  覚醒と共に自覚する全身の倦怠感。身体を起こしたくない。身を捻ると藁がしなる音がして、昨夜のことを思い出しカナタは慌てて上半身を起こした。  立ち上がろうとするカナタの腕が引っ張られる。  ご機嫌に尻尾をくねらせ、藁の上に悠々と寝ころんでいたルキウスに掴まれたのだ。 「おはよ、黒衣ちゃん」  カナタを掴んだ反対の手で頬杖をついて、蕩けるような笑みを浮かべたルキウスが起き上がったカナタを再び寝床の上へと戻そうとした。  その手を振り払って、カナタはルキウスの全身をくまなく観察する。 「ルキウス、発情は? もう大丈夫なのか」  ルキウスはにっこりと笑うと振り払われた手で再びカナタを掴み引き寄せようとする。 「まだまだ治まらないって言ったら、もう一度してくれる?」  甘い誘惑をのせた声音に動揺したことを悟られまいと、カナタは冷静に言い放った。 「治まったんだな。今、何時だ」  縋ってくる腕を叩き落として、カナタは立ち上がった。着ていたトゥニカがべとべとになっていることに気付き、腰紐と解き脱衣する。 「大胆っ」  前脚、後脚の順に立ち上がると、肌を空気に晒したカナタの背中にルキウスは頬を緩めながら抱きついた。 「邪魔しない」  ルキウスの頬が変形するほどに押し返した。  カナタはデキムスに依頼を受けた医師が来るということしか頭になかった。 「ええー、黒衣ちゃん冷たい。愛を確かめ合った翌朝でしょ。もっとべたべたしようよ」  愛を確かめ合ったつもりは全くない。昨夜の情事を思いも寄らない言葉で修飾され、カナタは脳みそが沸騰しそうだった。  腰に腕を回され、耳元で囁かれる。吐息が肌に触れ、ぞわりとした感覚に昨夜の熱情が瞬く間に蘇りカナタは焦った。  ルキウスの大きな手のひらはカナタの理性の箍を簡単に壊し、本能をむき出しにさせた。たった数時間前のこと。  思い返さないようにしているのに。  心の内を悟られぬようにルキウスを睨み付け、彼の腕の中から抜け出した。 「俺はルキウスの発情を治めたかった。それだけだから、昨夜のことは忘れて欲しい」  できるだけ事務的に言い放つ。嘘ではない。発情を治める方法を他に思いつかなかった。  けれど、やましい気持ちが少しもなかったわけではないことが、カナタに小さな罪悪感を植え付けた。 「忘れるなんてできるわけ、ないじゃない」  ルキウスの言葉が揺れていた。カナタに突き放されるとは思っていなかったようだ。  傷つけてしまっただろうかと胸が痛くなる。 「今から医師が来るはずだから、ルキウスは外に出るな。俺が医師を追い返す。馬房の中を自分で掃除しておくんだぞ」  早口で言い捨てて、物言いたげなルキウスを無視しカナタは厩舎の外へ出た。朝の空気はひんやりと冷たく、火照った身体を元の体温に戻してくれる。厩舎脇で井戸水を汲んで汚れた身体を洗い流し、トゥニカを洗濯した。  身体が冷えてくると急激に冷静になる。  これでよかったのだろうか。ルキウスを助ける方法は他にもあったのではないか。世話係が担当している人馬に手を付けるだなんて、どうかしている。もし知り合いの世話係が人馬に手を出したと聞いたら、カナタは軽蔑するだろう。  昨日の痕跡を必死に消そうとトゥニカを洗い流している自分が愚かに思えてきて、震えが止まらなくなった。  涙をこらえていると厩舎からヤンツが出て来て、カナタの目の前に立った。 「ヤンツ……」  恐らく昨夜同じ厩舎にいたヤンツには、カナタがルキウスに何をしたのか筒抜けだろう。  ヤンツは自ら轡を外し、カナタの手からトゥニカを奪うと洗濯を始めた。  その顔は伸びきった眉毛と口ひげに隠れ、表情を読み取れない。 「カナタ。ルキウスを助けてくれたんじゃろ。ありがとな」  か細い声で礼を言われ、カナタは乾いた唇を薄く開いた。  ヤンツに感謝されるとは思ってもいなかった。 「そんな、俺は……勝手なことをした」  人馬に手を出したことを教会に知られたらカナタは解雇され、ルキウスは処分を受けるかもしれない。人馬にも不利益になるかもしれず、カナタは人馬たちから疎まれてもおかしくはなかった。  しかしヤンツはカナタのしたことを受け入れてくれたのだ。  この選択は間違っているのかもしれない。けれど、ヤンツが許してくれたことでカナタは少し楽になれた。 「ほほ。お主のトゥニカはいつも薄汚れているな。今度わしが新しい服を織ってやろうかの」 「ありがとう、ヤンツ」  ヤンツが持ち出してくれた予備のトゥニカに身体を通す。  やがて朝霧の向こうから顔見知りの医師が医療鞄を携えて現れた。  ヤンツに轡をさせて、カナタは両手で両の頬を叩き、気合を入れる。  去勢手術なんてさせない。  眉尻をきりりと上げて、カナタは医師と対峙した。    ◆  ルペルカーリア祭まで、一週間を切っていた。街中や競技場では祭りに向けて色鮮やかなな洋織物が飾り付けられている。往来を行く人々もどこか忙しなく、気分が上がっているように見えた。  正午前、医師を追い返したカナタはアルデバランの神殿に来ていた。  神に祈りを捧げるための神殿は王の居城近く、広場に面した場所にある。入口の前には大理石の祭壇があり、その後ろの階段は神殿まで続いている。祭壇には儀式の残りか、花輪が掛かっていた。  白い列柱回廊の先に神像の収められた神室があるが、信者は中へ入れない。信者たちは列柱回廊で膝をつき、神室に向かって祈りを捧げる。  神殿内はどこからか不思議な香りが漂っている。香が焚かれているのだ。お香には燻蒸によって穢れたものを浄化する作用がある。  胸中のざらついた気持ちを拭い去ってほしいとカナタは思った。  カナタは敬虔な信者というわけではない。理由はどうであれ人馬世話係であるのに、人馬のルキウスに性的な接触をしてしまったという罪悪感がカナタを神聖な場へと誘った。  デキムスに依頼されルキウスに去勢手術を施そうとやってきた医師をカナタは発情は治まったから手術は必要ないの一点で追い返した。医師は訝しがりながらも、強固な態度のカナタに押され渋々と引き返していった。  カナタの思惑通り、去勢という最悪の事態は避けることができた。  しかし人間であるカナタが人馬のルキウスに手を出すという禁忌を犯してしまった。  動揺を静めようとおもむろに神殿を訪れる前に購入した瓶入り蜂蜜を乾燥した唇に塗りたくった。ルキウスに強引にキスされ、血が出たことを思い出して、頭を振って忘れようとした。  回廊に両膝をつけ、両手の指を絡め祈りを捧げる。周囲にはカナタと同じく神室に向かって祈りを捧げる人々がいる。  規律を守り、信仰に熱心な人々の中にいると、カナタが禁忌を犯した者であると見破られるのではないか怖くなった。  お祈りを終え、外へと出ると教会の前でトーガを着た女性たちが信者に声を掛けて署名を集めていた。即席の石看板には人馬競走の廃止を訴える文章が書き連ねられている。  カナタが見ていることに気付くと、ひとりの女性が穏やかな笑顔で近付いてきた。 「私たちはアルデバランに動物愛護精神を広めたいのです」  人馬競走が人馬への過剰労働、虐待の温床になっていると説明される。  けしてそのようなことはないと反論したいが、カナタが競走人馬界の関係者であるとは口が裂けても言えない雰囲気だ。批判の中には性的虐待が含まれており、ついカナタは口にしてしまった。 「人間と人馬が性交することはどうして問題なのですか」  すると女性の表情は豹変し、カナタを蔑んだ。 「何が問題って、人間と人馬よ! 気持ち悪い」  動物愛護という清廉さを掲げているが、彼女たちにとって人馬は人間が庇護すべき愛玩動物なのだ。そこには人馬たちの気持ちや、自由意志を考えるということがすっぽりと抜け落ちていた。カナタには偽善のように思えて、署名しなかった。そっと彼女たちの前から立ち去る。  分かったことは、やはり人間と人馬の性交渉は理解のされない行為なのだということだった。  人間と人馬の恋愛は成立するはずがない。  胸が潰されたように、息苦しい。  ヤンツは受け入れてくれたけれど、ルキウスを巻き込んでしまったことを悔やみ、どんな顔をして相対すればいいのか分からず厩舎から逃げ出してしまった。  罪悪感で苛まれるカナタを当のルキウスはまるで恋人のように慈しんできて、困惑を深めた。  まともに言葉を交わすのも初めてで、その上やたらと近い距離感でカナタに触れようとするルキウスに、世話係として節度を持って接しなければならないのに、決意が揺らぐ。  ルキウスの太い腕、咽返るような体液の匂い、カナタだけを見詰める発情したルキウスの瞳。  カナタは湧き上がる衝動に脇腹を抓るように押えた。  忘れなければならないのに、思い出してしまう。  ルキウスと顔を合わせたら強烈に記憶が甦りそうで、厩舎に戻るのが億劫だった。  しかし朝食を用意することすら放ってきてしまった。食いしん坊のルキウスが腹を空かせているのではないかと心配だ。  逃げてばかりいてもしょうがない。厩舎に戻ろう。  神殿前の広場に出ると競走人馬たちが数頭集まっていた。その中に見知った白い人馬がおりカナタは目を見張った。 「世話係を探している?」 「ああ、うちの厩舎のカナタ」  栗毛色の人馬は首を傾げた。 「さあ知らないな」 「背はこのくらいで、つやつやした黒髪に目がくりっとしていて、作業着の丈の短いトゥニカから太ももの内側のほくろが見えそうで見えなくて。鎖骨の窪みは舌を這わせたくなる絶妙なへこみ具合で……」  自分のことを何だか物凄く恥ずかしい形容で説明されている。 「ルキウス」  カナタは顔を合わせたくなかったことも忘れて、大声で呼んでいた。 「黒衣ちゃんっ」  振り返ったルキウスはカナタを見つけるなり軽やかに掛けて来た。  公共の場であることもお構いなしに、腕を広げてカナタの両肩を抱きしめてしまう。 「心配したんだよ。いきなりいなくなるから」  裏返った声には悲しみと怒りを滲ませていた。本気でカナタのことを心配してくれたのだろう。 「ごめん。でも勝手にひとりで街まで来たのか。デキムス様に知られたらお小言食らうだろ」 「はいはい」  口うるさいカナタをいなすと、ルキウスを囲んでいた人馬たちが彼らの世話係に呼ばれ広場を離れていくことに気付き、ルキウスは声を上げた。 「協力ありがとな」 「彼らは? ルキウスの友達?」 「友達って……」  好意的な関係性を示す言葉にルキウスは困ったように頬を掻いた。 「友達作る時間なんかあるわけないでしょ。毎日厩舎にいるんだから。彼らとは人馬競走の慰労会で顔を合わせたことがあるくらいだよ」  それでもカナタの知らないところで他厩舎の人馬と交流があったとは気付かなかった。  ルキウスのことは何でも知っていると自負していたけれど、そうではなかったことにカナタは蜂蜜を塗った唇を尖らせた。カナタの知らないルキウスを知っているだろう人馬に敵対心のようなものを抱いてしまう。 「帰ろう。黒衣ちゃん」  差し出された手を握る。笑顔を浮かべるルキウスはカナタがよく知っている甘ったれの人馬と相違ない。  世話係としてルキウスのことは何でも知っていると思っていたのに、昨夜の姿や知人の人馬と交流する姿はまるでカナタの知らない人馬のようだった。カナタの知らないルキウスの一面になんだか落ち着かない気持ちになる。  ルペルカーリア祭の準備で賑わう街中を通り抜け、厩舎へ向かう田舎道をふたりで歩いた。いつもならば手綱を引いてカナタがルキウスの前に立つのだが、抜け出して来たルキウスに手綱は付いていない。ルキウスはカナタの前や後ろをうろうろし、自分の居所をどこに置けばいいのか迷っていた。  ルキウスが戸惑っているのが分かって、カナタは苦笑した。どこにいてくれても構わないのに。 「あのさ、黒衣ちゃん。昨日は俺を助けるためにあんなことさせちゃったんだって、ヤンツのじじいから聞いたよ。黒衣ちゃんのおかげで、去勢させられずに済んだ。ありがとう」 「……」 「お礼も言いたくて、黒衣ちゃんを追いかけて来た」  柔らかな風に頬を撫でられて、カナタは足を止めた。  ルキウスに感謝の言葉を掛けられて、張りつめていた心が和らぐのが分かった。熱いものが込み上げて来て目頭を押さえる。  カナタの様子に慌てたルキウスが四つ足を忙しなく動かしてカナタの前を右へ左へと移動する。でかい図体に似合わず、落ち着きがない。 「どうしたの、黒衣ちゃん。お腹痛いの」 「……良かった」 「え」 「ルキウスが、去勢されなくて、良かった」  助けたいという一心から行動を起こした。でも世話係としてやってはいけないことをしたのではないかという恐怖が拭えなかった。だからルキウスと顔を合わせられなくて、逃げ出し神に許しを請うに至った。 「うん、うん。黒衣ちゃんのおかげだよ。ありがとう」  力強く言い切り、真っ直ぐに見据えてくれる。  ルキウスが肯定してくれたことにより、自分のしたことは、全てが間違いではなかったと思えた。 「……ありがとう」 「俺、何かした?」 「ひどいことしただろ。意識がないルキウスを襲ったようなものなのに、許してくれてありがとう」 「ひどくないよ。だって俺は黒衣ちゃんのことずっといいなって思ってたから、襲ってくれて思いがけない好運だったよ」  ルキウスに両手を掴まれる。  昨夜囁かれた睦言を思い出し、カナタは瞳を大きく開いた。今朝も甘い言葉を囁かれた気がしたが、罪悪感が先行して真正面から受け止めることが出来なかった。 「黒衣ちゃんはひとりで腐っていた俺と向き合ってくれた。初めて出会った時からずっと好きだよ。黒衣ちゃんは俺のこと面倒見なきゃいけない人馬としか思ってないかもしれないけど」  嘘偽りないルキウスの直球の好意をぶつけられて堅物のカナタはよろめいてしまう。 「だから、昨日のことはなかったことにできない」 「やめてくれっ」  羞恥と居た堪れなさに悲鳴を上げ、思わずルキウスの口を手のひらで塞いだ。  するとルキウスは押し当てられたカナタの手のひらを軽く舐め上げた。分厚い舌の湿った感触にカナタは驚いて手を引っ込める。 「舐めるやつがあるか」 「舐めるよ。好きな人の身体ならどこでも」  カナタが抗議をしてもルキウスは怯まない。ルキウスは本気なのだと感じた。  好きだと聞かされてもカナタは混乱するばかりだった。  世話係のカナタにとってルキウスは大切な人馬だ。初めて世話を任された競走人馬であり、これからの彼の競走人馬としての人生を支えていきたい、最後まで見届けたいと思っている。  美しい人馬としての肉体に触れたいと不埒なことを考えたこともあるけれど、妄想の中の話でしかなかった。去勢という危機に直面しなければ、決してあんなことをしようとは思わなかった。  ルキウスが尻尾を揺らしながら前脚で地面を掻いて、甘える動作を見せる。こんな時だというのに、染みついた職業病的思考なのかカナタは可愛いと思ってしまう。 「黒衣ちゃんは、俺のことどう思っているの」  カナタの言葉を待つルキウスにカナタは正直な今の気持ちを吐き出した。 「俺は、世話係としてルキウスのことを大事に想っている」 「うん。知っている。黒衣ちゃんはいつも俺のことを考えながら接してくれる。特にブラシをかけてくれる時は気持ちが良くて、黒衣ちゃんがいちいち俺の反応を気にしてくれるのが、おかしくて、でも嬉しくて。人馬の俺は黒衣ちゃんに愛されているって毎日感じているよ」  ルキウスは照れくさそうに声を弾ませて話してくれる。言葉の節々が煌いていて、ルキウスにとってのカナタとの日常がかけがえのない心地よいものなのだと感じた。  知らなかった。世話係の仕事は地味な作業の積み重ねだ。唯一カナタの仕事ぶりを評価すべき主であるデキムスからは叱られ、嫌味を言われるだけだ。誰かに褒められることなど一度もなかった。  理想の世話係になろうと模索しながら人馬と接していた日々を一番近くにいてくれたルキウスはそんな風に感じていたなんて。腹の底が熱くなり、くすぐったい気持ちになった。 「俺は黒衣ちゃんに愛を返したいんだ」  白人馬であるルキウスの巨体が日の下で煌いて、カナタには眩しいくらいだった。  世話係として人馬のルキウスに受け入れられていることは正直に嬉しい。自分が歩んできた道は間違いではなかったのだと肯定された気がした。 「俺が世話係でいられるのは、ルキウスがいてくれるからだ」  人馬に認められてこそ、世話係として一人前だとカナタは思っている。 「でも、ルキウスが俺に、その、愛を返そうだとか何かしたいだとか、そういうのは考えなくていい。俺は世話係としてやるべきことをしているだけだから、ルキウスに見返りを求めたりはしない」 「黒衣ちゃん」  煌ていたルキウスの表情が曇る。 「俺が黒衣ちゃんを好きなのは、迷惑?」 「光栄だよ。世話係として世話する人馬に好かれるのは嬉しいよ」 「世話係じゃなくて、俺と人間の恋人同士みたいになってほしい」  ルキウスは背を屈めて、自分よりも小さなカナタの顔を覗き込む。その動作は人馬にとって不自然に思えて、カナタは人馬と人間の埋められない差というものを感じた。 「……なれない」  人間と人馬の恋愛は成立しない。 「こんなものを大切にしているくせに」  カナタの否定的な言葉に苛立ったのかルキウスは腰布からあの春画を取り出した。 「なっ返せ」  反射的に取り返すとカナタは春画をぎゅっと抱きしめ、隠した。 「黒衣ちゃんは人馬と、俺とそういうことしたいって思ってくれたんでしょ。俺のことが好きってことでしょ」 「それは世話係と人馬の適切な関係じゃない」  人馬との性行為について口にした途端、侮蔑の表情を向けた女性の顔を思い出す。  人間と人馬が蜜月関係だと誰かに知られたら、ルキウスはどんな処分を受けるか分からない。  処罰を逃れたとしても、デキムスは怒り狂って、カナタは解雇され、ルキウスは教会に戻されるかもしれない。いずれにしろルキウスとカナタは一緒には居られなくなるだろう。  一緒にいられなくなるのは嫌だ。カナタは世話係としてルキウスの傍にいたかった。 「俺のこと好きだから触ってくれたんじゃないの……?」  意気消沈したルキウスは身体が一回り小さくなってしまったかと錯覚するくらい縮こまってしまった。  カナタは自分が好意を持っているのだと誤解させ、ルキウスを傷付けたという重大さに気付き、青ざめた。 「ごめん」  沈痛な面持ちで謝罪の言葉を捻り出す。  自分の中に人馬への性的欲求があったこと、去勢回避という大義名分を掲げて自分の欲望を満たすためにルキウスを利用してしまったことを自覚した。  ルキウスにひどいことをした。取り返しがつかない。  では目の前で発情し横たわっていたのがルキウスではなかったら、カナタは同じ行動に出ただろうか。  教会前にいた栗毛色の若い牡人馬だったら、ルキウスと同条件で世話しているヤンツだったら、同じことをしただろうか。  答えは否だ。  人馬と性交渉ができると知り、嬉しかった。  人間と人馬の恋は非難されると痛感し、悲しかった。  どうしてそう感じたのか。自分が心の奥底で人馬のルキウスとしたいと思っていたからだ。  無自覚の感情を急激に意識して、ぶわっと顔面が一瞬で熱くなった。 「謝らないでよ。黒衣ちゃんが真面目で誠実で、人馬の俺を大切に想ってくれてるって分かっている。俺、物心ついた時には競走人馬になれって、走れって言われて、なのにアルデバランを自由に駆け回ることも許されてない。尊敬できて傍にいたくて触れたいと思った人が人間だったら諦めなくちゃいけない。どうして俺は人馬で人間じゃないんだろう」  人馬であることを嫌になるくらいにカナタのことを好いてくれているというのか。天にも昇る嬉しさと、ルキウスを振ったことへの申し訳なさに心はぐちゃぐちゃになった。  ルキウスのことが好きだ。ルキウスのことが好きだったんだ。  でも世話係としてルキウスの気持ちを受け入れるわけにはいかない。  人間と人馬の恋は茨の道だ。苦難しか待ち受けていないと分かっているのに、大切なルキウスを引きずり出すことは、世話係のカナタにはできない。  ルキウスがカナタに尻を向けてとぼとぼと歩き出す。  悔しげな背中に掛けるべき言葉が見つからない。  重くなる空気を払拭しようと、カナタはルキウスを追いかけてわざと大きな声を出した。 「愛なんて返してくれなくていいから。競走人馬として最速の称号を獲ってくれないか。ルキウスにしかできない、俺への最高のお返しだよ」  ルキウスはやる気のない横目でため息をついた。 「……それは黒衣ちゃんの頼みでも難しい」 「どうして。ルキウスは走るの好きだろ。一番を目指そうとは思わないのか」  ルキウスが才能を持ちながら人馬競走に真面目に取り組もうとしない理由は前から気になっていた。 「俺は振られて傷心なの。世話係の人は話しかけないでくださる?」 「わ、悪い……」  機嫌が悪くなったルキウスは高貴な貴婦人の真似をして、わざとカナタの罪悪感を煽るようにふてぶてしく歩く速度を速めた。上下する背中から目が離せない。怒っているくせにルキウスは途中で振り返って、カナタがきちんと付いて来ているかを確かめていた。  これでいいはずだ。人間で世話係のカナタと、競走人馬のルキウスが特別な関係になっていいはずがない。昨夜の秘め事と種族を超えた思慕を他者に勘づかれれば、カナタの立場ではルキウスを守ることができなくなる。  ルキウスの想いに応えることはできない。けれど、カナタの世話係としての頑張りをルキウスが認めてくれたのは本当に嬉しかった。  ずっとルキウスの世話係として傍にいたい。  だがその願いは、この恋が成就することはないことを前提として成り立つ。  カナタは唇を拭った。保湿としてつけたはずの蜂蜜が拭き取られてしまう。  生まれて初めて、失恋の痛みに息苦しさを覚えた。  ルキウスが駆けていく。四肢が力強く大地を蹴ると蹄跡が残った。カナタはルキウスの蹄跡をなぞるように追っていくことに小さな幸福感を抱く。同時に自分の足ではルキウスと並走することは叶わないという置き去りにされる愁傷をもみ消した。

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