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第5話
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競技場ではいくつもの大きな幕が吊るされ、様々な色のリボンが風にはためいていた。ルペルカーリア祭当日。身分に関係なく、アルデバラン中の人々が集まっていた。来場者には花輪が配られ、子供たちは頭に乗せ遊んでいる。大人たちは入口に掲げられた出場人馬十八頭の名前に群がり、競走の結果予想に余念がない。予想屋たちは声を張り上げ、露天商たちは試合のおやつにと果実を売り歩く。一年で一度の人馬競走界の頂点を決める日に、人々は浮かれていた。
磨かれた女神の像は全ての人々に微笑みを向けていた。
天気は晴れ。式典が始まる前にカナタは馬場の状態を確かめてから、競技場裏の出場人馬たちの待機場へと戻った。
ルキウスは他の人馬たちと並び、地面に差し込まれた杭に繋がれて、大人しく出番を待っていた。
ルキウスに試合出場権は与えられていないが、厩舎に所属する人馬は試合後の式典に出席することが義務付けられている。優勝人馬を先頭としてアルデバラン中の牡人馬が勢ぞろいする行列は圧巻の迫力だ。教会の力を市民に知らしめるための催しでもある。
多くの人馬でごった返す待機場の騒々しさに人馬たちは気が立っているが、ルキウスは落ち着いていた。ルペルカーリア祭の喧騒などまるで他人事なのだ。
ルキウスの去勢を阻止し、告白をされてから一週間。ルキウスは轡をきっちりつけ、デキムス厩舎の規則を守っているんだと言わんばかりにカナタとは口をきいてくれない。
ルキウスが甘えてくることもなく、どこでも構わず抱きしめられることもなくなっていた。
口をきく必要なんてない。正しい関係を維持しているはずなのに、心が離れてしまったようで、カナタは寂しさを感じていた。
もう元のふたりの関係には戻れない。
「ううう……」
ルキウスの隣で待機していたヤンツがよろめいて膝をついた。
「大丈夫か、ヤンツ」
年老いたヤンツもまたルペルカーリア祭に参列するためだけに来させられていた。普段は屋内で織物をしているヤンツには長時間の外出は負担が大きい。
カナタはヤンツの轡を外してやり、水袋を差し出した。
「やれやれ、年寄りには堪えるわい。ありがとうカナタ」
ヤンツはカナタにだけ聞こえる音量で礼を言った。
「無理させてごめんなヤンツ」
ヤンツに肩を貸して、立たせているとルキウスが機嫌悪そうに唸った。ルキウスの見つめる方を向くと主人であるデキムスがこちらへやってきた。
「世話係。二頭の人馬を連れて付いて来い」
人馬には一瞥もくれずデキムスは歩き出す。感情的になりやすいデキムスが物静かに命令する様に、カナタは嫌な予感を覚えた。けれど背中を向け歩き出してしまった主人に拒絶の声を上げることもできず、致し方なく二頭の人馬の手綱を引いて後を追った。
デキムスは待機場を抜けて、祭りで賑わう競技場入口から遠ざかっていく。人気も人馬の姿もなくなり、やがて競技場からやや離れた地下へと続く通路へと入って行った。競技場の外から内へと人馬が移動する通路かと思ったが、どこかおかしい。中は薄暗く湿っており、どこからか水の垂れる音が聞こえた。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
デキムスの命令を無視して、ルキウスの去勢を拒んだことをデキムスは知っているはずだ。この数日、デキムスに呼び出され最悪体罰を受けることをカナタは覚悟していた。しかし今日までデキムスからお咎めはなく、不可解に思っていた。
目の前のデキムスは不気味なまでに静かだった。
不穏な予感を拭い去るかのように、カナタは蜂蜜を唇に塗った。
手綱を通して、ルキウスもヤンツも緊張していることが伝わって来た。ここで世話係が怯えては彼らを不安にさせてしまう。カナタは警戒しつつも、前に進んだ。
やがて通路は行き止まり、ヤンツの後ろで頭上から鉄格子が降りて来た。まるで棺のような狭い石の部屋に二人と二頭は閉じ込められた。
「な、なんだ」
ガラガラとからくりが動く大きな音がする。閉じ込められた空間そのものが移動しているのだと気付いた。一体どこへ連れていかれるのか。不安が煽られる。
ヤンツは怯え縮こまる。ルキウスもしきりに上下左右を見回して、カナタとヤンツを守るように前へ立った。
機械音の中、デキムスがねっとりした声音で喋る。
「世話係。お前は僕の命令を拒んで去勢手術に来た医師を追い返しただろう。最悪だ。腹が立つ。僕の命令をきけない世話係も人馬も大嫌いだッ。だがお前が逆らってくれたおかげで、今日の宴に参加できる。その一点だけは感謝しなくてはならない」
ドォンっと棺のような空間が何かにぶつかり、揺れる。鉄格子が音を立てながら上がると、デキムスは外へ出て行く。
入れ替わりにこちらへと外から顔を覗かせたのは、教会の法衣を着た男だった。神父だと思ったがその顔には蝶を模った怪しげな面をつけている。
デキムスは男に向かって恭しく礼をした。
「デキムス厩舎所属二頭、参りました。この度はご指名頂戴し、誠に感謝しております」
「急な依頼に応えてくれ感謝する。デキムス厩舎の地位は保障しよう。ほう。デキムス公が大きく名乗り出ただけある。なかなか良い若人馬だ。老人馬は不要だ。世話係と共に出ろ」
カナタはルキウスの手綱を外し、ヤンツと共に外へ出た。
目の前に無数の階層をなす石の建築物がそびえ立ち、カナタの周囲を囲んでいた。上の階層から人々が顔を覗かせてこちらを見下している。カナタのいる最下層だけに光が当たっている。その周囲には鉄格子の嵌められた檻があり中から人馬たちの気配がした。獣の気配と薄っすらと漂う血の臭いにカナタはここがどこなのか思い当たった。
「円形闘技場!?」
ルキウスは箱の中に取り残され再び鉄格子が降り、閉じ込められる。見渡せばルキウスと同じように箱に閉じ込められた牡人馬たちがいた。彼らも強引に連れて来られたのだろう、訳が分からない様子だった。その中には神殿前の広場でルキウスと話していた若い牡人馬もいた。周囲の鉄格子の中には牡人馬と牝人馬が分けられて閉じ込められている。人馬たちは皆、怯えていた。
牡人馬たちの前の戸が開き、一頭の牝人馬が連れて来られる。艶めいた肌に長い髪、人の上半身はまだ少女のようにあどけないが、馬の下半身は発育のいい大きな尻をしている。両手を縛られ、その表情は恐怖に染まっている。会場には甘ったるい香の匂いが充満し、若い牡人馬たちの目の色が変わった。牝人馬を餌に発情を誘発している。
「さあ皆さまお待たせいたしました! 年に一度のルペルカーリア祭の始まりです。本日最初の生贄は処女の人馬の少女。彼女の前に現れたのは牝の味をまだ知らない五頭の童貞牡人馬。果たして彼女を妊娠させるのはどの牡人馬でしょうか。さあ賭けた賭けた!」
仮面をつけた神父が叫ぶと頭上の観客たちから下品な歓声が上がり、金貨が宙を舞った。神父と同じく観客は仮面をつけている。高価な衣類と装飾品を身に着けている様からも、彼らが貴族であることは間違いない。
信じられない。
人間の貴族たちが人馬たちの種付けを見世物にして楽しんでいるのだ。
教会前で人馬競走反対運動をしていた動物愛護家たちの主張を思い出す。カナタは教会が人馬虐待に加担しているとは微塵も信じていなかったが、彼女たちの主張は全てが嘘ではなかったのだ。
神聖なる人馬競走の試合の裏で、倫理の破綻した宴が開催されていたなんて。信じていた教会の裏の顔を目の当たりにし、カナタの正義の心は憎しみで変色した。
「ルキウス!」
反射的にルキウスが閉じ込められた箱へとカナタは戻っていた。鉄格子の向こうでルキウスが苦々しい顔をしている。まだ発情してはいないようだが、呼吸が乱れ始めている。
他の箱からはうめき声が漏れ始めていた。生贄の牝人馬は顔面蒼白で震えている。
「黒衣ちゃん……」
デキムスが冷酷な笑顔を見せる。
「どうした世話係。お前は下がって、こいつが牝人馬に種付けする様を見ているんだ」
「デキムス様っおやめくださいっ。人馬たちの性交渉を見世物にするなんてどうかしている」
「金貨四百枚」
デキムスはゆっくりと近づいて来ると、鉄格子を握っていたカナタの手を離させた。
「こいつが種付けを成功させれば、我がデキムス厩舎に支払われる金額だ」
「そんな……」
人馬競走で優勝するよりもはるかに高額だ。この吐き気がする見世物にそんな価値があるのか。頭を殴れらたかのような眩暈がする。
「世話係が言ったのであろう? ルキウスには種付け人馬として稼ぐ能力があると。確かに去勢してしまえばこの場に連れて来ることはできなかった。くくく、礼を言うぞ世話係。お前が望んでいたようにルキウスには種付け人馬として活躍してもらおうッ」
確かにカナタはルキウスを去勢させたくはなかった。それはいずれ優秀な競走人馬となり、ルキウスの血を引く人馬を求める厩舎から交配依頼が殺到し、種付け人馬としての活躍を夢見たからだ。目の前の狂乱の宴に参加させるためではない。
「俺はルキウスを見世物にしたかったわけじゃない」
「黙れ世話係ッ。種付けをすれば、金が手に入る。お前が望んでいたことと何も相違ないではないかッ」
デキムスはカナタを押し倒し、背中を踏みつける。
「ぐっ」
土の匂いが鼻を掠め、カナタの頬と衣服が汚れる。
「やめろ、デキムス! 黒衣ちゃんのトゥニカを汚していいのは俺だけだ」
「何を訳の分からぬことをッ、人馬ごときが僕と交渉できると思うな」
ルキウスは轡を投げ捨て、鉄格子をがたがたと揺らし、叫んだ。
この場に相応しくない抗議をし、カナタへの独占欲を見せるルキウスに少し呆れてしまう。
「いいな、ルキウスッ、僕の命令に従え」
「……黒衣ちゃんを傷つけないと約束しろ」
ルキウスは狭い箱の中を何度も脚踏みし、苛立ちを募らせる。尾を激しく上下に振っていた。
デキムスは最初からルキウスが素直に言うことをきくとは思っていないのだろう。だからカナタやヤンツを連れてきた。人質を取ることで、ルキウスを支配しようとしている。
その目論見は正解だった。カナタに危害が加えられることが許せないルキウスは受け入れるしかない。
カナタの存在が足を引っ張りルキウスに誤った選択をさせようとしていることが、カナタは我慢ならなかった。
「駄目だルキウス、こんなのは間違っている」
カナタが上半身を起こそうとすると、デキムスにより強く踏みつけられた。圧迫された内臓が悲鳴を上げる。
「だから! 厩舎主ごときが黒衣ちゃんを潰すな! デキムスの言う通りにするから」
ルキウスが順従を示すと、デキムスはカナタから足を退けた。
カナタは這って二人を隔てる鉄格子にしがみついた。
「大丈夫、黒衣ちゃん」
「ルキウス、逃げてくれ……」
「黒衣ちゃんの夢は俺が最速人馬になって、種付け人馬としても活躍することだろ。ちょっと邪道で早すぎるかもしれないけど、デキムスの言う通り、ここで逃げたって種付け人馬の仕事をする未来は変わらない。黒衣ちゃんを守るから、俺を信じて」
ルキウスは努めて明るい声で言った。発情を促され、つらいはずなのにカナタを安心させるためだ。
「あはははッ。これで僕は、デキムス厩舎は安泰だ。ルペルカーリア祭連続出場記録も途切れない。いい気味だな世話係。僕を馬鹿にした報いだ。お前の大事な人馬が搾取されていく様を大人しく見ていろ」
「人間の享楽のために性交するなんておかしいじゃないか!」
観客席まで聞こえるように、大声でカナタは叫んだ。
悔しい。ルキウスを見世物にするために世話してきたわけじゃない。
見世物になることを受け入れたルキウスに動揺を隠せない。どこかで主を憎み、我が道を行くルキウスが見世物になることを受け入れるわけがないとカナタは思い込んでいた。
けれどルキウスは受け入れるという。裏切られたような気持ちになりカナタは奥歯を噛みしめた。
怯え切った牝人馬を、ルキウスが襲う姿を見たくない。
それだけじゃなかった。見世物だからという理由だけでなく、ただ可憐な牝人馬とルキウスが性交渉するなんて、カナタは見たくなかった。
「嫌じゃないのか? 彼女と、したいのか?」
「えっ」
初めて出会った時はカナタのことを威嚇してきた。でも、ルキウスはカナタを信じて手を握ってくれたのだ。
それからは毎日一緒の時間を過ごして来た。
ルキウスに甘えられることが満更でもなかった。
元気に走り回るルキウスの姿が、カナタに世話係としての充実感を与えてくれた。
ルキウスが好きだと言ってくれて、嬉しかった。世話係として認められたのだと思えた。
カナタを世話係にしてくれたのはルキウスだ。ルキウスがいなくては、カナタは世話係として立っていられない。
ルキウスの世話係になれて、幸せだった。
生まれて初めて、深く触れ合いたいと思った。
カナタを抱いたルキウスの太い腕が、牝人馬を力強く抱き締めるのかと想像するだけで嫉妬で狂いそうだ。
人馬のルキウスが、好きだ。誰にも触れさせたくない。
教会の、デキムスの命令に逆らうことは許されることではない。
世話係として失格だ。
けれど、世話係の地位を失っても、ルキウスを助け出したい。もうこの想いを止めることはできない。
「ふざけるなっ。俺はこんな見世物のためにルキウスを去勢させたくなかったわけじゃないっ」
カナタはルキウスに向かって吐き捨てると、痛みの走る身体を懸命に動かし、蹲っている牝人馬を立ち上がらせ、彼女が入って来た戸へと押し返した。カナタは発情した牡人馬から牝人馬を守るように戸を背にした。ルキウスと牝人馬を接触させはしない。
観客からは一斉に不満の声が上がった。
カナタは日の光の当たる闘技場の真ん中で、観客席に向かって顔を上げ、叫んだ。
「戦争捕虜だから、人馬だからって彼らを好きに弄ぶ権利は人間にはない。人馬も人間と等しく尊い命だ!」
催しを楽しみに来た観客たちは、彼らの娯楽を否定するカナタの声に耳を貸さず、文句を浴びせた。
一方でカナタの言葉を、その場にいた囚われの人馬たちが固唾を呑んで聞き入っていた。
世話係だ、競走人馬だと隔たりを作っていたのはカナタ自身だった。
ルキウスはどうだ。いつもカナタをひとりの人として接してくれ、カナタの立場を敬ってくれたじゃないか。
「人間も人馬も同じ人だ。どうか彼らの声に耳を傾けてください」
カナタは頭を下げた。
観客席がどよめく。デキムスは狼狽えるばかりだった。
「黒衣ちゃん……」
カナタの声明に、ルキウスをはじめとする人馬たちは呆気にとられていた。
出会ったことのなかった、人馬を尊重する人間の存在に、心を動かされていた。
カナタはルキウスの方を向き、言い放つ。
「俺はルキウスに人間だろうが人馬だろうが、他の誰とも性交して欲しくない」
「えええっそれって黒衣ちゃんっ」
ルキウスは驚き、初めて口をついたカナタの欲望に、こんな時だというのに表情を明るくし喜びの声を上げた。
理解できない声明を上げ、催しを止めようとするカナタに、デキムスは顔を真っ赤にして喚いた。
「また僕の邪魔をするのかッ、世話係ぃ! 構わない、他の鉄格子を上げろ」
箱から発情し、理性を失った牡人馬たちが呻きながら出て来る。彼らは牝人馬の残り香を追って、カナタへ向かって一直線に飛びかかった。
カナタは逃げない。目を瞑り、痛みに襲われることを覚悟した。
「危ない! ヤンツ!」
「はっ」
ルキウスの鶴の一声に、気配を消して様子をうかがっていた老人馬のヤンツが現れた。ヤンツは前掛けの下から白い布を取り出し、鉄格子を力づくで変形させ箱から飛び出したルキウスへと投げつけた。
受け取った布をルキウスは広げると、間一髪カナタを襲おうとする牡人馬の顔に被せた。顔に布を巻きつけられ、視界を奪われ暴れる人馬はやがてその場に崩れ落ちた。
他の牡人馬たちも同じようにヤンツに布を被せられ、倒れていく。
「黒衣ちゃん! 無事だねっ」
ルキウスは呆然とするカナタに駆け寄ると、小さな身体を力いっぱい抱きしめた。
「ほほほ、発情鎮静剤を染み込ませた布ですじゃ」
脚が弱っているはずのヤンツが背筋を伸ばし胸を張って、布を広げている。
観客席からは混乱の声が上がっていた。
「くっ、奴らを捕らえろ。反逆者だっ」
神父が声を上げると武装した兵士たちがルキウスらを囲んだ。
「ルキウス様」
ヤンツが声を張り上げると、ルキウスは髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「ああ、もうっ。分かったよ。騒ぎになってしまったからには仕方がないっ」
ルキウスはカナタを背にし、前脚を大きく振り上げた。驚いた兵士たちが後ずさる。
「我はルキウス・アウレス・ルペカリーア。人馬帝国アルデバランの第十五代王位後継者である! 人馬の人権を侵害し、性愛を見世物とする教会の不道徳な催しに抗議する!」
ルキウスの宣誓は闘技場全体に響き渡った。
ヤンツがルキウスに向かって膝をつく。檻の中にいた人馬たちも一斉に膝をつき頭を下げた。
闘技場の真上に太陽が輝き、ルキウスを照らし出し荘厳な空気が漂った。
カナタは呆然とルキウスを見詰めていた。
王位継承者。ルキウスは今は亡き人馬帝国の王子だったのか。
「ここで我を拘束するならば、人馬たちは反乱を起こすぞ」
ヤンツが檻を開け、人馬たちは粗暴な声を上げながら兵士と神父を囲んだ。
屈強な兵士といえど、巨体を持つ複数の人馬たちに襲われたらひとたまりもない。
「ぐっ……引け!」
兵士が下がり出すのと同時に、混乱と恐怖に包まれた観客たちは悲鳴を上げながら逃げ出した。
「またか、またお前たちは僕の邪魔をするのかッ」
尻もちをついたまま動けなくなっているデキムスは力なく吠えた。
「デキムス。あんたは何も知らされていなかった。教会に俺という腫物を押し付けられ、教会の裏で悦楽を貪る連中にいいように利用された」
「僕は厩舎主だッ父さんから引き継いだ厩舎のためだけを考えてきた。それなのに誰も僕を分かろうとしない。僕は厩舎存続のために教会に認められたかっただけだッ何が悪いッ」
「デキムス様……」
哀れな主にカナタは同情する。それを見越してデキムスに駆け寄ろうとするカナタをルキウスは止めた。
人馬たちに両腕を持ち上げられて、引きずられるようにデキムスは退場した。
「あーっ、やっちゃったどうしよう」
人馬たちとカナタだけになると、先ほどまでの王様然とした態度はどうしたのか、ルキウスは情けない声を出した。
「ルキウス様!」
「もう我慢ならない、人間どもに人馬の力見せてやりましょう!」
あわや貴族を楽しませるための見世物になりそうであった人馬たちの怒りは頂点に達していた。
「ルキウス様。逃げ出した人間貴族たちは人馬が反乱を引き起こしたと言い回るやもしれません、人馬たちはどのような迫害を受けるか分かりませぬ。このままでは全面戦争になることもあり得ますぞ」
ヤンツは宰相のようにルキウスに進言する。
「皆落ち着けって。人間とまた戦争するなんて愚かだよ。同胞が無駄死にするのはもうごめんだ」
ルキウスの言葉には今を生きる人馬を愛する心と、失ったものへの哀愁とが込められている。その場にいた人馬たちはルキウスに諭されて、冷静さを取り戻していった。
人馬たちの中心にルキウスがいる。ルキウスの言葉を皆が待っている。
カナタが面倒をみてきた甘えたがりのルキウスが、人馬の王子様だなんて。驚きと誇らしさでカナタは胸が熱くなった。
「……あーあ。俺は王様になんかなりたくないから、教会のお偉いさんに言われた通り大人しく目立たないようにしてたのに」
「ルキウス様は人馬たちに残された最後の光です」
人馬たちは羨望の眼差しを一心に寄せる。
教会は王位継承者であるルキウスの命を見逃す代わりに、競走人馬にし目の届く範囲に置くことで警戒していたのだろう。事情を知らぬ厩舎主になったばかりのデキムスは教会にいいようにルキウスを押し付けられたのだ。裏の祭りを企てたやつらもルキウスの正体を知らなかった。
王位継承者の人馬が生き残っていると知られれば、人馬の王権復興を望む者、教会の政治体制が気に食わないもの、様々な者が利用しようと企てるだろう。
だからルキウスは身分を隠し、人馬競走に出場してもけして目立たぬようにしていた。人馬たちもルキウスの方針に従った。
「ルキウス……俺のせいで」
それなのに、この闘技場でカナタが声明を上げ、騒ぎを起こしたために、身分を明かすことになってしまった。人馬たちにとっては余計なお節介だったのだろうか。
「心配そうな顔しないで。俺に罪悪感を抱いて唇を震わせる黒衣ちゃんとか最高に滾るけど」
予想もしていなかった事態に陥ってしまったというのに、ルキウスは明るく笑ってみせる。他の人馬たちもカナタに力強い笑みを見せた。
「ありがとう黒衣ちゃん。危険を顧みず、俺の、俺たちのために声を上げてくれて。俺たちを人だと言ってくれて、みんな感動してるよ。俺たちはもっと自由に生きて良いんだって自信が持てた。さっきの黒衣ちゃん、すごく格好良かった。愛と優しさで眩しいくらいに光ってた。この人が俺の好きな人だって、どうだすごいだろって世界中に自慢したい。好き。大好き。今すぐひん剥いて食べちゃいたい」
徐々に発言が危うくなっていくルキウスを人馬たちがどうどうとあやす。
やがてルキウスは顔を引き締め、胸を拳で強く叩いた。
「黒衣ちゃんが勇気を出して立ち向かったんだもの、俺も覚悟決めるよ」
「ほほほ。カナタにも一役かって貰おうかのお」
ヤンツが飄々とふたりの間に割って入ってくる。
「……じじい。最初から黒衣ちゃんを巻き込んで、俺に発破かけようとしてただろ。じじいの計画通りかよ」
「ほほ、カナタには感謝しとるぞ。この人馬生諦めていた子を立ち直らせてくれたからの。愛の力、万々歳じゃあ」
ヤンツはルキウスとカナタの手を握らせた。
ご老体の余計なお世話にルキウスは苦笑しながら、カナタの手を握り込み力強く引っ張った。闘技場中央の戸をくぐり、外へと通じていると思われる地下通路を駆ける。
カナタは足をもつれさせながら懸命にルキウスを追った。
「ど、どこに行くんだ」
「本物のルペルカーリア祭に」
ルキウスの向こうから、光が差し込みカナタは目が眩んだ。
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