4 / 126

第1章 契り(追憶 2 years ago) 01

《perspective:亜矢》 ――二年前 僕は蹌踉としながら、夜の街を歩いていた。 「何?喧嘩?」 「酷い格好……」 すれ違う人達が、僕をギョッとした目で見ていた。無理も無い、この姿を見れば誰だって不憫に思うだろう。 この寒い冬の夜にシャツ一枚、しかもぐしゃぐしゃに汚れた服でいるなんて。 僕は人々の視線を気にすることもなく、ただ俯いて歩いた。 僕には関係ない。世間体なんて……。 いっそのこと終わりにしたい。 生きて、穢れた男たちに抱かれ続けるくらいなら……。 その時大きな橋が目に飛び込んだ。身を乗り出して下を覗くと、そこは月明かりを受けて真っ黒に輝く河川だった。 ふらふらと、河川敷まで降りる。 人影はない。この暗がりなら、見られる事も止められる事も、ないだろう……。 冷たい風が僕の髪を靡かせた。 『まだまだ足りないって思ってんだろ?』 『誰にでも悦がりやがって。お前、ほんと淫乱だな』 先刻の男達の声が頭の中で渦巻いた。それと同時に自分の厭らしい様も……。 イヤダ、キタナイ……イラナイ……。 もう迷いは無かった。 足元から迫り上がってくる冷たい感覚を感じながら、ゆっくり歩みを進める。 1メートルほど行った所でいきなり水深が深くなった。水圧に体をとられてぐらりとよろめき、一瞬にして空を仰ぐ。 眩しいくらいの月が、流れるようにさっと視界に入った。 次の瞬間、痛いほどの冷たさが体中を覆う。 ゴボゴボと水中で息を吐く。苦しい……。必死にもがく自分が情けない。こんな時でさえも、生きようとしているなんて。 意識を手放しかけたその時、強く腕を掴まれたかと思うと、肩を抱えるように引き上げられた。 「ッ……ゴホッゴホッ」 空気を感じた途端、咳き込んで激しく呼吸する。そうしていると、「何をしている」と不機嫌そうな声が上から降ってきた。 徐々に頭がはっきりしてきて、ゆっくりと顔を上げた。 月の光に照らされて男の顔が見えた。 濡れた長い前髪から覗く紺青の瞳に射抜かれて、心臓がドクリと音を立てる。 僕はその瞳から逃れるように、直ぐに視線を外した。 「……僕、これからしなきゃいけないことがあるので……。  あの……関わり合いにならないうちに、どっか行ってください」 「こんな時間に、こんな冷たい水の中で?……一体何を?」 その人は笑いを含んだ声で訊いた。 「……死ぬんです」 正直な言葉が漏れる。 きっと本気にはしないだろう。そう思っていたのに、今度は笑うこともせず、じっと僕の顔を見つめた。 再び、その瞳に囚われた。金縛りにあったかのように、体が硬直して動けない。 突然、ピカッと空が明るくなったかと思うと雷鳴が轟いた。 「っ……!」 その音に身を固くする。耳を塞いだ手が震えているのが自分でも分かった。 「死ぬことより雷が怖いのか?変な奴だな」 そう言った男の人は、先刻までとは一変して穏やかな微笑を浮かべていた。それを見て何故かドキリとする。 「……おいで。じきに雨が降る。そうすると本当にシャレにならない」 ポンと頭に手を置かれた瞬間、僕は反射的にその手を払い除けていた。 「っ……嫌だぁあ!!気持ち、悪いっ……気持ち悪いっ!!」 言葉が勝手に口をついて出る。全身に走る悪寒が止まらなくて、自分自身の肩を抱いた。 「おいっ……大丈夫かっ……?」 「ごっ……ごめん、なさい……」 荒い息をしながらぎゅっと目を閉じる。 ちゃんと説明して謝らなければ。初対面の人にこんなに酷いことを言うなんて……。 そう思うのに、その先を伝えることができない。 震えを抑え込むように俯いていると、静かに男の人が口を開いた。 「……怖いのか?」 僕は小さく頷いた。それは事実。男が怖い……。 「……こわ……い……。自分じゃなくなって……そんな自分も怖くてっ……、嫌いで……。死のうと思った……っ」 言葉が自然と溢れ出る。 「な……のに、貴方のせいでっ……!!」 冷たい肌に熱い涙が滑り落ちた。 この思いはなんなのだろう……。どうしようもなく苦しい。 「貴方に出会わなければっ……」 次の瞬間、腕を引かれその人に抱き締められていた。互いに濡れて冷えているはずなのに、体中に温もりが流れ込んできて、その心地良さが何故か怖く思えた。 「……いや、だっ……放して!」 暴れると、回された腕にさらに力が篭る。 「……大丈夫、何もしない」 「……」 「君の恐れている事が何なのか知らないが、これだけは言える」 その人は凛とした目で僕を真っ直ぐに見て、整った唇を柔らかく緩めた。 「君は死ぬにはもったいない……君は、本当に綺麗だ」 その言葉に心臓が跳ねる。 綺麗……?こんなに汚れた僕を、綺麗と言ってくれるの……? 胸の高鳴りが煩い。 今度こそ、この青い瞳から逃れられない。違う、逃れたくない。 初めて人前で声をあげて泣いた。 ――傍にいたい。 この人は、僕を愛してくれるだろうか……。

ともだちにシェアしよう!