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第1章 契り 02

《perspective:結月》 俺はその夜、久しぶりに一人で屋敷の外へ出た。いつもは執事の神霜(かみしも)がいるが、今日はいない。無断で屋敷から出てきたからだ。 あそこにいると息が詰まる。祖母や父の顔色を伺い、与えられた仕事をこなす毎日。 外との接点を断ち切られ、屋敷や仕事関係の者以外との交流も無い。 それはまるで機械のようで、自分の存在価値が時々分からなくなる。 俺は一体何の為に生きているのだろう……? ゆらゆら揺れる水面を見つめていると、バシャバシャと水音が聞こえてきた。 こんな時間に、誰かいるのか? 不審に思ってその音のする方へ目を走らせると、川の深淵の方へ向かう人影が見えた。 大きな水飛沫を立てて目の前から姿を消した瞬間、俺は思わず駆け出していた。 暗い水の中からその人間を引き上げる。間近で見た途端、綺麗だ、と率直に思った。暗闇に青白く浮かび上がる肌。大きな瞳が際立つ小さな顔。頬には濡れた長い髪が張り付いていて、華奢な体つきを見るまでは少女と見間違うほどの美しい少年だった。 先刻まで月が明るく照らしていた空が雲がかってゆくのを見て、早く河川から出なければと、彼の頭に手を置いて促した。 するとその手を叩かれたかと思うと、何かに怯えたように全身で拒絶される。 俺は思わず彼を抱き締めた。 声を押し殺すように紡がれる言葉に、「君は綺麗だ」と伝えることしかできなかった。 会って間もない彼を、何故か失いたくないと、本気で思ったのだ。 震える背中に手を添えて、泣き声を聞いていると、ぎゅっと胸を掴まれる想いがした。それは自分に似た、悲痛の叫びのようだったから。 大粒の雨が水面を打ちつけ始めたのに気づき、俺は引き摺るように少年を橋の下まで連れて行った。 彼はまだ俺の胸で縋るように泣いていた。こんなに感情を曝け出せることが羨ましく思えた。 俺が最後に泣いたのはいつだっただろうか。そういえば笑ったのはひどく久しぶりだ、と先刻の少年とのやり取りを思い出す。 暫くして、泣き疲れたのか、少年が静かに顔を上げた。涙に濡れた瞳を見つめると、恥ずかしそうに顔を逸らした。 「おい、君……」 「え……?」 ふと気づいて、自分の手を彼のシャツに伸ばす。よく見ると所々ボタンが取れていて、大きく開いた胸元から彼の青白い肌が剥き出しになっていた。 ――なんて痛ましい。余程のことがあったのだろう。 「こんな姿じゃ、家にも帰れないだろう。親御さんが心配するぞ」 彼は無言で視線を落とした。 寒さもあるが、こんなに衣服の乱れた状態で歩かせるわけにはいかない。 スーツのジャケットを脱ぎ、細い肩にそっと羽織らせる。 「濡れているが少しの間我慢してくれ。服を貸すから、うちに来なさい。すぐそこだから」 雨は思ったよりも早く上がり、濡れた肌に冷たい風を感じながら、夜の道を並んで歩いた。 「さすがに寒いな……大丈夫か?」 少年は小さく頷いた。先刻から一言も言葉を発していない。まだ俺のことを警戒しているのだろうか。 「そういえば名前を言っていなかったな……。一ノ瀬結月(いちのせゆづき)だ。君は?」 俯く横顔に話しかけると、彼は一瞬躊躇してから答えた。 「宮白(みやしろ)……亜矢」 「アヤ……か」 「女みたいでしょ。嫌いなんです……僕」 そう言って綺麗な顔を歪める。確かに女みたいな名だが。 「どうして?可愛いじゃないか。その顔によく似合う……」 「それがっ……」 「嫌なんだろ」 なるほど。女みたいな容姿に手伝って名前までも、とは男にとってはかなりのコンプレックスだな。 「アヤ」 もう一度その名前を呟くと、彼は目を見開いて俺を見つめたあと、やや怒った口調で言った。 「き……嫌いって言ったじゃないですかっ……!名前で呼んで欲しくないですっ……」 「良い名なのにそんなことを言うな。……名前は存在の証だろ。大切にしなさい」 名は、存在の証……―― 愛する人につけてもらった“結月”という名。純粋にその名を呼ばれる時が来たなら、自分は決して一ノ瀬家の部品ではないと、思うことができるのだろうか。 「結月さん……」 透き通るようなその声にハッとして、彼を見た。 月明かりに照らされて、微かに、美しく、笑っていた――    * * * 「……スーツ、濡らしちゃってごめんなさい」 隣を歩く亜矢が申し訳無さそうに言った。 「気にするな。俺が勝手にしたことだから」 「でも、ずいぶん高そうな生地だし、クリーニング代だけでも……」 肩にかけたジャケットに触れながら、沈んだ声で頑なに言うものだから、どうしたものかと考えあぐねる。まだ若いのに、なんて律儀な子なんだろう。 「じゃあ……うちに来て手伝いをしてくれないか?」 「えっ……」 「いや、君さえ良ければ、だが。学生の君から金銭を受け取るわけにはいかないし」 捻り出した妥協案を伝えると、亜矢は「そうさせてください」と頬を緩めた。 ようやく笑顔を見せた亜矢を見て心底ほっとしたが、それ以上に会う口実が出来たことが嬉しかった。 「結月様っ!!一体どこに行っていらしたのですかっ!?」 屋敷に着き玄関のドアを開けるなり、神霜が顔面蒼白で駆け寄ってきた。 「……悪い。ただの散歩だ」 「こんな時間にっ?会長がお怒りですよ……。あと、プレゼンの件でお話があると」 ああ、また今日も祖母の小言を聞かなければならないのか。はぁと溜息を漏らしていると、神霜がいきなり「ああっ!」と頓狂な声を上げた。 「どうされたんですか、こんなに濡れて!風邪を引かれますっ……直ぐにお風呂へ……あっ、今タオルを――」 狼狽したまま素早く奥に引っ込み、バスタオルを持って戻ってきた。 焦りのせいか、まるで水遊びをした後の子供を乾かすかのように、タオルでガシガシと体を拭かれる。いつも繊細な神霜らしかぬ対応だ。 されるがままになっていると、クスッ、と背後で小さく笑う声がした。子供扱いされているこの状況を亜矢に見られていると思うと、途端に気恥ずかしくなる。「もう大丈夫だ。客がいる」と声を掛けると、神霜はハッとした様子で手を止め、徐に後ろを覗いた。 「おや、この子は一体……」 「神霜。何でもいい、この子に服を渡して着替えさせてくれ。風呂へ案内も、頼む。俺はシャワー室を使うから」 そう言うと、神霜は目を丸くした後、何故か穏やかな笑みを浮かべた。 「かしこまりました。では、こちらへ……」 促されるまま戸惑いがちについていくその後姿に声をかける。 「亜矢、着替えたら神霜に家まで送ってもらいなさい。……来週の月曜日、うちで待っている」 亜矢はゆっくりと振り向いて、にこりと笑った。 何から何まで、亜矢に対する自分の言動に驚く。 俺はきっと、あの笑顔に救いを求めている――

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