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第1章 契り 03
《perspective:亜矢》
僅か1時間ほど前に出会ったばかりだというのに、結月さんと別れた途端一気に心細くなった。そんな僕を安心させるように、タオルと着替えを渡しながら神霜さんが声をかけた。
「私は、此処の全般の管理と一ノ瀬家の皆様のお世話をしております、神霜と申します。結月様が小学生の頃からこちらに従事しておりますので、もう20年近くになりますでしょうか。分からないことがあれば何でも聞いてくださいね」
上品で感じの良い笑顔。おそらく40代後半くらいだろう。笑った目元にやや年齢を感じるけれど、清潔感があって若々しい。中年の男性は、自分に向けられる視線があまり良いものでないと気づいたときから苦手だった。それでも神霜さんは不思議と怖いとは思わなかった。全身ずぶ濡れの結月さんを心底心配している様子を見ただけでも、人の良さを感じられたから。
その5日後。お手伝いの初日に、神霜さんが最寄りの駅まで車で迎えに来てくれた。
「わざわざすみません」
「道に迷われるといけないからと、結月様の頼みですから。先日は夜で分かりづらかったでしょう」
駅から離れ、程なくすると閑静な住宅街に入った。区間が整理され、そこに建ち並ぶ邸宅はどれも立派だ。聞けば大使館が近いことから、外国人も多く居住しているらしい。国際色豊かな風景を興味深く眺めていると「こちらです」と神霜さんが車を停めた。
促され車を降りる。
以前は真っ暗の中、しかも結月さんに連れられるまま来たので分からなかった。
高い塀にぐるりと囲まれていて、綺麗に整えられた植栽の奥に大きな屋敷が見える。
門が開かれ、敷地の中に足を踏み入れると、白を基調にした豪壮なファサードが目に入った。洋モダンで、少しクラシカルな要素もある。外からでも感じる荘厳な雰囲気に、緊張が増した。
屋敷の中に通される。前に此処に来たときには気にする余裕もなかったので、内部をちゃんと見るのは初めてだった。どこに目を遣っても、余白を残した空間に洗練されたデザインの家具や調度類が置かれていて、その生活感の無さに、さらに心が落ち着かない。
「お茶を淹れますね。レモンティーはお好きですか?」
「はい。あ、でも、お気になさらず……お客さんというわけでもないですし」
「いいえ、どのような理由であれ、結月様が初めて此処に連れてこられた方ですから。せめて今日だけでも。僭越ながら、私がお供させていただきます」
神霜さんはそう言って微笑んで、僕を大広間の一角に配されたソファ席へと促し、「少々お待ちくださいね」と部屋から出ていった。
“初めて”。先程聞いたその言葉に引っ掛かりを覚える。これまで誰も連れてきていないということだろうか。……友人も?
そういえば、結月さんはどこだろう……。
「神霜さん、結月さんはどちらにいらっしゃいますか?ご挨拶させていただきたいのですが」
ティーセットを持って戻ってきた神霜さんに訊ねる。
「今日は社屋の方に行かれています。商談などの外出がない時には、此処の仕事部屋でリモートワークされることが多いのですが」
「そうなんですね。ところで、結月さんは何のお仕事を?」
「一ノ瀬不動産のマーケティング本部で主に開発事業に携われておりますよ」
一ノ瀬不動産は、一ノ瀬グループの中核になっている不動産デベロッパー企業だ。もしかしなくても、結月さんって……。
「ああ、ご存知なかったのですね。結月様のお父様は、一ノ瀬グループの代表取締役社長です」
僕の表情を見て、神霜さんがそう教えてくれた。
一ノ瀬グループ。不動産、製薬、金融など幅広く事業を手掛けている大企業。メディアや街中で広告を見ない日はなく、都内にビルや商業施設をいくつも造っているので、その会社は当たり前のように知っていた。
この都心の一等地に邸宅を構えるなんて、よほどの名家だとは思っていたけれど。
そのような所、しかも会社ではなく屋敷で、僕に出来る仕事なんてあるのだろうか。不安になって神霜さんに訊ねると、ちょっとした雑務や掃除だと教えてもらい安心する。
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