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第1章 契り 04

「――あ、結月様、お戻りのようですよ」 遠くで重厚な扉の開く音が聞こえたかと思うと、神霜さんがそう言ってサッと立ち上がった。 ドキドキと鼓動が高鳴る。いざ会うとなると恥ずかしい。初対面であれだけボロボロと泣いてしまったのだから。 結月さんの声が段々と近づいてくる。電話しながら歩いているようだ。大きく扉が開かれた大広間の入口から彼の姿がようやく見えた。 チャコールグレーのスーツにサックスブルーのシャツ、ネイビーのネクタイ。髪はセンターパートで分けたアップバングスタイルで、整った目鼻立ちを晒している。上品で知的な雰囲気の佇まいに、思わずドキリとした。 前にも思ったけれど、海外モデル並に背が高い。小顔なので余計脚が長く見える。道理でスーツが似合うわけだ、とまじまじと見てしまう。 「――はい。これから先方と調整します。ご報告は後ほど、テレカンで」 結月さんは終話するなり、またどこかに電話を掛けた。相手は外国人だろうか。ネイティブスピーカー並の流暢な英語で話している。少し眉根を寄せた真剣な眼差し。その顔を見つめていると、ふと、会話中の結月さんと目が合った。直ぐに会釈をすると、その途端に視線を外され、廊下に出てどこかへ消えた。 ――あれ? 「ずいぶんと忙しいようですね」と、結月さんのコートをワードローブに置いて戻ってきた神霜さんが言った。 「そう、ですね……」 予想外の彼の態度に軽くショックを受ける。この前と少し雰囲気が違うような……いや、一番初めに会話した時は確かあんな感じだった気がする。冷たい、影を纏った表情。 僕、此処に居ては迷惑だったかな。でも、彼が「うちで待っている」って言ったんだし、神霜さんに迎えも頼んでくれた……。あ、僕が呑気にお茶なんか飲んでるから……? カップを置いて黙り込んだ僕を見て、神霜さんがクスリと笑った。 「気になさらないでくださいね、いつもあのような感じですから。ですが、結月様、今日をとても愉しみにされていたようでしたよ。今朝、少し表情が穏やかでしたから」 「え……」 ハッとして顔を上げた瞬間、大広間に入ってくる結月さんの姿が目に入った。 「亜矢」 今度は僕の方をしっかりと見て、名前を呼ばれる。たったそれだけなのに嬉しくなってつい口が綻ぶ。 「今日からお世話になります、結月さん」 勢いよく頭を下げると、「世話になるのはこっちだろ」と、真顔を柔らかく緩めた。それを見てホッとする。 “いつもあのような感じ”と神霜さんは言っていたけれど、僕の中のイメージはこの優しい空気を纏った彼だ。 結月さんが向かいの椅子に座り、神霜さんが直ぐに、紅茶を注いだティーカップを置く。ありがとう、と彼が言って、スラリと長い白い指をハンドルに添えた。三本指で摘むようにカップを持ち上げ、伏し目がちにゆっくりと口をつける。その少しの所作だけでも、見とれてしまうほど品を感じる。 やや俯いた顔に、さらりと前髪がかかった。前は暗くてよく分からなかったけれど、とても綺麗な髪の色だ。透明感のある栗色。地毛だろうか。 僕の視線に気づいた結月さんが「どうした?」と訊くのを「何でもありません」と慌てて誤魔化す。 紺青の瞳に見つめられ、あの夜、安心させるように抱き締めてくれたことを思い出して、トクリと心臓が音を立てた。 ふ、と結月さんが小さく笑った。眉を開いた穏やかな表情を見て、釣られて笑みが溢れる。やっぱり、結月さんにはこの顔が似合うな。 「結月さん、僕にできることなら何でも言ってくださいね」 勢いよくそう伝えた僕に、一瞬目を丸くしてから、綺麗な微笑をその薄い唇のふちに浮かべた。 「君は、笑っていてくれるだけで良いよ」 心地良く脳に響く、低音。理屈無しに心を落ち着かせる声。 愛おしさが胸元に突き上げてくる。 ――結月さんの笑顔をもっと見たい。でも、これ以上、彼に惹かれては駄目だ。 心の隙間から覗くこの感情の名前は記憶にあるのに、気づかないふりをした。

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