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第1章 契り 05

《perspective:結月》 『来週の月曜日、うちで待っている』 そう亜矢に告げてから、約束の日までたった5日だというのに、ずっと心がそわそわと落ち着かなかった。 こんなにも誰かに会いたいと思うのは初めてで、この気持ちに戸惑った。 長い間、自分はこのまま独りでいいのだと、思っていたから。 当日、朝から夕方まで社屋で社内ミーティングと商談が続き、移動中もクライアントやチームメンバーからの着信が途絶えなかった。頭の中で次に生まれるタスクを想定しながら、電話の要件を捌いてゆく。久しぶりにキャパオーバーになりそうになったその時、大広間に居る亜矢の姿が目に入った。 少し緊張した面持ちで会釈される。一瞬で気が緩みそうになり、思わず視線を逸してしまった。 外資系デザイン会社の担当プロデューサーとの通話を終えたあと、波立つ心を鎮めるように深く呼吸をして、亜矢の元へ向かう。 改めて明るい場所で彼を見て、思わず目を見張った。 雪のように肌が白く、首も肩もほっそりとしていて、少し儚げな印象を受ける。肌の色に馴染むような色素の薄い茶色の髪は襟足が伸びていて、サイドの髪を耳に掛けていた。長い睫毛を携えた大きな瞳や、ほんのりと紅い厚めの下唇が可愛らしい。 あの夜、痛ましく思うほど乱れた姿で、かつ全身濡れた状態だったが、瞬時に思った“綺麗だ”という形容は間違いではなかったと思うほど、端整な容姿だ。あわせて、屈託のない笑顔を惜しみなく向ける。 多くの人が見惚れてしまうだろうと思った瞬間、何故か嫉妬に似た感情が湧き上がり、そんな自分に驚いた。 亜矢が「僕にできることなら何でも言ってくださいね」と言うので、「笑っていてくれるだけで良い」とつい本音が口をついて出る。“俺だけに”と言ったら困ってしまうだろうか。いや、さすがに引かれるだろう。会って2日の、しかも同性の男に言われるのは。 表面上は冷静を装っていても、先刻から心の中は大騒動だ。7歳も年下の少年に、柄にもなく心を揺さぶられてしまうなんて、情けない。それでも、初めて感じるこの捉えどころのない感情は、不快なものでは無かった。 それから1ヶ月、亜矢は一週間に数日、学校帰りに屋敷に来て、雑務や掃除をした。 勉強で疲れているだろうにそんな素振りは見せず、いつも一所懸命な亜矢の姿が、とても愛おしく思えた。 亜矢にとっては、ここで働くことが濡らしたスーツの償いということになっている――正確に言えば、川に入ったのは俺の勝手な判断で雨にも降られているので、亜矢のせいではない――のだが、端からそんなことは関係なかった。 ただ亜矢との繋がりがなくなってしまうことを恐れて、未だにそれを口実にしている。 会うたびに、亜矢のいろんな表情が見たい、話が聞きたいと思うようになり、もしかすると、この感情は恋愛の類かもしれないと気づいた途端、それを抑え込むように蓋をする 俺は誰も愛してはいけない。 それはまるで呪いのように、心の奥底に有り続けた。    * * * 「結月さん、お茶をお持ちしました」 ノックの後、いつものように控えめな声が聞こえてきた。 亜矢は、俺の仕事部屋に茶を運ぶ用を任されていたようで、この時だけが唯一、彼と二人きりで過ごせる時間だった。 嬉しい思いが顔に出ぬよう必死に努めながら、亜矢を中に通す。 コーヒーの芳醇な香りが部屋を包み込んだ。 「コーヒー、今日は僕が淹れたんですよ。あっ、このお菓子手作りみたいで、レシピ教えてもらったんです。今度作って来るので、結月さん、絶対食べてくださいね!」 「亜矢、料理できるのか?そうは見えないが」 「ひどいなぁ。僕、小さい頃から家で料理してたので人並みにはできますよ」 少し拗ねたような表情が可愛くて、俺は小さく笑った。コーヒーを飲みながら、楽しそうに話す亜矢を眺めていると、日々の煩わしい彼是が一掃されていくようだった。 「あっ……ごめんなさいっ!また喋り過ぎました……。仕事に戻りますね」 亜矢は少し焦った様子でそう言って、一度お辞儀をしてからドアへと向かった。いつもこの瞬間が、いやに寂しい。 「亜矢」 思わずその後ろ姿に声をかける。 「どうかしましたか?」と、微笑んで振り返る亜矢に、咄嗟に思っていたことを口にした。 「もう少し、ここにいなさい」 亜矢は目を丸くして俺の方を向き、近づいた。 「え、今……なんて……」 明らかに動揺しているようで、足元にある資料の入った段ボール箱に気づいていない。 「亜矢!危なっ……」 咄嗟に叫ぶ。亜矢は危惧していた通り段ボール箱に躓いて床に倒れ込んでしまった。急いで彼の元に駆け寄って、ゆっくり体を抱き起こす。 「大丈夫か?」 「痛っ……大丈夫じゃないです!」 亜矢は半ベソ状態で足首を擦った。 「捻ってはいないか?」 「はい、ぶつけただけで……」 「まったく、そそっかしいな」 「だって結月さんがっ……」 目が合うと、腕の中でもがくように慌てだす。 「と……にかく!もう大丈夫ですから……あの、離してくださいっ……」 「服、握り締めて何言ってるんだよ」 「っ!あの……これはっ」 亜矢は顔を真っ赤にしてパッと手を離した。それを見て思わず、ふ、と口元が緩む。 目の前でさらりと揺れる髪。自然と自分の指がそれに触れた。 「……結月さん……?」 髪を梳くように撫でると、石鹸のような清潔感のある匂いがふわりと香った。じっと見つめる透き通るような榛色の瞳に唆されてしまう。 「……可愛い」 胸の高鳴りが煩くてどうしようもなく、赤くなった耳に唇を寄せた。 その瞬間、弾けたように体を押される。 「っ……からかわないでください!!」 亜矢はそのまま勢いよく部屋から出て行った。 「本当に、可愛いな……」 窓の外を見てひとつ息を吐き、気持ちを落ち着かせる。 ――どうしてこんなにも惹かれてしまうんだろう。 最初に出会ったときから、愛しい気持ちは遥かに増幅して、俺の心を掻き乱した。

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