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第3章 歪み 01
《perspective:亜矢》
密命の終わりを告げられてから、早半年以上が経つ。
あの一件の後、一度だけ沙雪さんに会った。
図書館の前、ばったりと鉢合わせて思わず表情を固くした僕に、彼はふと笑いかけた。
「何も言わなくていい。初めから、アレだけの関係だっただろ」
口を開きかけた僕を制止するように、ただそれだけを言って、別れた。
それから沙雪さんと二人で会うことはなくなった。
明らかに僕を避けているようだった。
それに加え、3年の沙雪さんとは、去年のようにカリキュラムが一緒になることもないため、接点がない。そして、この頃には本格的に就職活動や卒業制作に取り掛かる学生も多く、彼も例外ではなく、忙しくしているに違いなかった。
僕は自分から沙雪さんに会いに行こうとは思わなかった。暗黙のうちに、行ってはいけないと分かっていた。
ずっと利用していた。あんなに親しく、優しくしてくれた彼を。心が痛むほど愛情を向けられていたのに。
でも、結月さんとだけ体を重ねることをずっと願っていた僕にとって、この結果になったことは、罪悪感よりも喜悦が勝っていた。
こんな僕を、沙雪さんは怨むだろうか。
「あっついなあ……」
講義棟を出ると、夕方にもかかわらず、蒸し暑い空気が体を包んだ。もう9月だというのに、年々残暑が厳しくなっている気がする、と鬱々となりながら、足早に家へと向かう。
「亜矢」
駅の構内に入ろうとした時、突然、聞き覚えのある声が足を止めた。
「沙雪、さん」
「久しぶり」
髪が少し伸びた、沙雪さんの姿が目の前にあった。
「お久しぶりです……」
予期せぬ再会に僕は若干緊張し、ぎこちなく挨拶をする。
眉と目が近い知性的な目元。その黒い瞳でじっと僕を見つめる癖は変わっていない。聡明な顔に浮かべる、その微笑みも。
それでも、得体の知れない何かが、さっと心を過ぎてゆく。それが何なのか解らず、ざわめく胸を軽く押さえた。
「……暑いな。立ち話もなんだし、うちに寄っていけよ。絶版した伊藤サダオの初期の作品集、教授に貸してもらったんだ。亜矢、好きだろ。このデザイナー」
「え……あ、はい」
ぼうっとしていた僕は、思わずそれに同意をしてしまっていた。
にこりと沙雪さんが笑う。
それを見て、再び覚える妙な違和感。
――それでも、どこかで安心しきっていたのだ。もう、あの頃のような特別な感情はないだろうと。
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