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第3章 歪み 02

久しぶりに訪れた沙雪さんの部屋は、以前と同じように整然としていて、それに少し緊張する。早く帰ろう、と僕は思った。 「はい、これ」 「あ、ありがとうございます……」 心が落ち着かないまま、渡された作品集をパラリと捲る。 「亜矢、白石の研究室、専攻したのか?」 「はい。でも白石教授、研究生になった途端いきなり厳しくなったので、ちょっと後悔してます」 課題が多くて、と笑うと、 「あいつ、隠れた鬼だからな。レポートくらいなら、またいつでも見てやるよ」 そう言って、僕の髪をくしゃりと撫でて微笑んだ。 やっぱり沙雪さんはいい人だ。あの胸騒ぎは、きっと気のせいで……。 そう思いながら差し出されたアイスティーに口をつける。ひんやりとした液体が喉を通った。 静けさを破るように、鞄に入れていたスマホのバイブレーション音が鳴る。それを取り出して画面の表示を見た。 ――結月さんだ。 沙雪さんの目の前で電話に出るのは避けたい。でも、もし急用だったら……? 躊躇していると「出なくていいのか?」と沙雪さんが声をかける。 「一ノ瀬だろ。悪い、表示見えたから。出れば?」 「え、と……」 言葉を濁しているうちに着信が切れた。 「これから一ノ瀬と予定あった?」 「あ、いえ、今週はずっと出張中で……」 「ふぅん。だいぶ忙しいみたいだな。うちの研究室の教授もあいつの話してたよ。大学との開発プロジェクト、まだ若いのに、ディレクション、卒なくこなしてて凄いって」 「そうなんですね、家ではあまり仕事の話しないから……」 「……家では、ね。まだ一緒に暮らしてるんだな。一ノ瀬とはうまくやっているのか?」 「え……」 違和感の正体が何なのか悟った。 そうだ。こんなにも冷静に、彼が結月さんのことを口にするなんて……。 鮮明に思い出される、あの日のこと。 朦朧とした意識で見た、沙雪さんの顔。 ただじっと僕たちの行為を見つめていた。その時、かち合ってしまった彼の瞳は、哀しみ、怒り、幻滅……どれとも言い表せないものだった。 その後のことは何も覚えていない。 そして、今日まで、あの日の出来事は無かったもののように、結月さんとの幸せな生活があって……。 ――呼び起こされる記憶。 「……亜矢?」 黙っている僕の顔を、沙雪さんが覗き込む。 「っ、ああ!仲良く、してますよ」 思わず声が震えた。 うまくやっているのか、なんて、どうしてそんなことを訊く……? 「そうか……。よかった」 ふ、と笑って言ったその台詞に、再び胸がざわめく。 変なんだ。図書館の前で最後に会った時から。沙雪さんの、表情が……――

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