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第3章 戒め 01

《perspective:亜矢》 薄く目を開ける。 間接照明だけがついた薄暗い部屋。 寝たまま顔だけを動かすと、壁に所々飾られた建築アートの写真や、書籍がぎっしり詰まった本棚が目に入った。 整頓されたデスクの上にはデジタル時計が置かれていて、20時43分を表示している。 一瞬、自分がどこに居るのか解らなかった。 ゆっくり上体を起こすと、ズキンと波打つような激しい頭痛に思わず頭を抱えた。頬を流れた涙が乾いたのか、肌が引きつる感覚がする。 「……大丈夫か?」 やや離れたところから気遣わしげな声が聞こえた。 僕は彼の顔を見ることもせず、ベッドから起き上がった。立った瞬間、ズクンと鉛を背負わされたような倦怠感に襲われる。 足元がふらつくのを必死で抑えながら、アイロンがけされ綺麗に畳まれていた自分のシャツを羽織った。 「亜矢」と、再び呼び掛けられる。 それに応えず無言で玄関へと向かうと、軽く腕を掴まれて引き止められた。 「待てよ、送っていく」 強張る身体を無理矢理動かして、その手をゆっくり解き払う。 「いいですっ……一人で帰れますから」 「亜矢……」 「貴方のことを、怨むとは言いません……でも」 掌に爪が食い込むほど固く拳を握る。 「貴方を好きになることは、一生ない……!」 彼の顔は、見れなかった。見てしまったら抑えきれない怒りが込み上げてきそうだったから。 解っている。責めなくてはいけないのは沙雪さんじゃない。僕自身だ。 好きだと告げられたあの日、体を求められた時点で、突き放すべきだった。 密命は自分の想像以上に心身を擦り削っていた。そんな時、彼のどこか結月さんに似た雰囲気と優しさに、少なくとも心地良さを感じていた。現に、行為の度に向けられる「好き」という言葉や感情に、何度か(ほだ)されかけたことがある。 それなのに、この関係を有耶無耶にしていた僕が、すべて悪い……。 「気持ち、悪い……」 まだ体の中に残っている沙雪さんの感触。 今までずっと忘れていた結月さん以外のそれは、簡単には消えてくれない。 もう1週間も触れていない結月さんの体温が恋しい。 会いたい。今すぐにでも声が、聞きたい……。 ――言ってしまおうか。今日のことを……。 そう思うほど、何かが心の片隅でそれを制止する。 伝えてしまったら、結月さんはどうするだろう。 ……あの時みたいに怒ってくれる? 違う。「本当の姿を見せるのは、結月さんだけ」と約束したじゃないか。きっと幻滅される。 ――僕を、捨てて、しまう…… それを考えた瞬間、心の中でそっと決意する。 今日のことは、絶対に知られてはいけない。 明日には彼が帰ってくる。何もなかったかのように、振舞うんだ……。 どうやって家路を辿ったのかは覚えていない。気がつけば、僕は玄関の前にいた。 心も体も、もう疲れ切っていた。眠ってしまおうと寝室へ向かう。 ドアを開けて直ぐ、僕はハッと息を呑んだ。 目に飛び込んできたのは、今居るはずのない、彼の姿だった。

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