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第4章 再会 02

「結月様、会長がお呼びです。お話があると……」 扉の向こう側から神霜が声をかけた。俺は溜息を吐き自室から出る。 祖母の趣味であるビクトリア調の調度類が並ぶ廊下を歩き、部屋へと向かった。 「……結月です」 「入りなさい」 ノックをするといつもの重々しい声が聞こえた。俺は祖母と二人きりになることを未だ畏怖していた。 大きく深呼吸をし扉を開ける。 祖母はグレイヘアを綺麗に引っ詰めにして背筋をきっちりと伸ばし、こちらを見据えていた。 75歳という年齢を感じさせない居住まいは、一ノ瀬グループ代表取締役会長としての威厳を感じる。 「お祖母様、話というのは……」 「――宮白亜矢さん、だったかしら?」 少し間をおいて祖母の口から出たその名前に、ハッと目を見開いた。 「貴方、此処に戻ってきたということはあの子との関係も終わったのね」 いつもよりやたら柔らかい口調に慄然とする。 「それにしても、大切な人だと言って此処を飛び出したのに、あっさり独りで帰ってくるなんて……。やはりあの子じゃ具合が悪かったのかしら?」 卑しく口角が上がるのを見て、ギュッと拳を固く握り、足元に視線を落とした。 「顔の綺麗なコだったけれど、男の子だものねえ。貴方が正気に戻って良かったわ」 上から祖母の猫撫で声が降ってくる。 「約2年……お遊びにしては充分よね?」 その言葉に、思わず「遊びじゃない」と声を荒らげた。 そんな気持ちではなかった……。喚き散らしたいのを必死で堪え、ゆっくりと息を吐いた。 「まぁいいわ。どちらにしろ、貴方に愛する力が無かったということよ。だから言ったじゃない。あの女の子供が、人を幸せにすることなど出来るわけがない」 鼻で嗤ってそう言った祖母を睨みつけると、一変していつもの仮面のような顔を俺に向けた。 「貴方を外に出すことで、仕事上でのパフォーマンスが上がったことは嬉しい誤算だったわ。これまで以上の成果を出してくれるのなら、此処に留まらなくてもいい。しかし、再び変な虫が付くことだけは避けなければ」 祖母は威圧的な眼差しで見つめ、静かに口を開いた。 「私との約束は覚えておいででしょう?笠原家との結納の儀、1ヶ月後に設定します。いいですね」 いいですね、とは決して確認の意味ではなく強制的に決定したことを意味する。先に根回しして、反論の余地を与えないのが祖母のいつものやり方だった。 言い返す言葉が見つからず、部屋から飛び出した。 まるで嫌なことがあったら直ぐに逃げ出してしまう子供のような自分に、心底幻滅する。言いたいことはたくさんあるのに、それを伝えることが出来ない。 そもそも、この2年の間に、あの祖母との約束をどうにか破棄することだって、やろうと思えば出来たはずだ。 それを(はな)からせずに、目を逸し、忘れていた理由(わけ)は、自分でも気づいていた。 これまでずっと、祖母に従ってきたのは、父の正妻――自分の母になるはずだった女性に対する後ろめたさが、いつも付き纏っていたから。 祖母を憎む気持ちに比例して、愛し合っていた父と産みの母のことをも、嫌いになりそうだった。父が抱いていた自責の念と似たようなものが、喉につかえた魚の小骨のように、ずっと心の中に在り続けた。 自室に戻り、扉を閉めて深く息をした。ふとデスクの上に置いた一枚のカードが目に入った。 『貴方に、これを渡したかった』 透き通るような声と同時に、ふわりと優しく笑いかける姿が、幻像のように脳裏に浮かぶ。

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